䷁ 坤為地
乾為天が六本すべて陽爻だったのに対し、坤為地は六本すべてが陰爻です。
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乾が「純陽」なら、坤は「純陰」。
乾が「生み出そうとする働き」だとすれば、
坤は、生じたものを受け取り、育て、具体的な形にする働き
として読むことができます。
約3000年前――まず『周易』そのものを読む
まず後世の哲学的説明を外して、古い本文を見てみます。
卦辞
坤 元亨。利牝馬之貞。
君子有攸往。先迷後得主。利。
西南得朋。東北喪朋。安貞吉。
坤は、大いに通る。
牝馬のように正しくあることがよい。
君子がどこかへ進もうとするとき、先頭に立てば迷い、後から従えば主人を得る。
西南では仲間を得、東北では仲間を失う。
安んじて正しさを保てば吉である。
乾では、龍でした。
坤では、牝馬が登場します。
なぜ「馬」なのか。しかも、なぜ牝馬なのでしょうか。
ここが最初の謎です。
六爻を読む
初六 履霜、堅冰至。
霜を踏めば、やがて堅い氷がやって来る。
朝、地面を歩いていると霜が降りています。
まだ世界は凍っていません。
しかし、その小さな変化を見れば、「やがて冬が来る」ことが分かります。
自分から何かを起こすことではなく、すでに起き始めている変化を感じ取ること。
乾の初九は、「まだ時ではないから動かない」でたが、
坤の初六は、「小さな兆しから、これから起こる変化を知る」ところから始まります。
六二 直方大、不習无不利。
直く、方正で、大きい。習わなくても利ならざることなし。
坤の本質が最も純粋に現れる爻です。
大地を想像すると分かりやすいでしょう。
大地は、
「この種は好きだから育てよう」
「これは嫌いだから育てない」
とは言いません。
やって来たものを受け入れ、そのものが育つ場所を与える。
重要なのは、
受け入れることは、何もしないことではない
という点です。
種を受け取った大地は、それを現実の生命へ変えていきます。
六三 含章可貞。或従王事、无成有終。
ここは坤為地の核心の一つです。
才能や美質を内に含み、それを誇示しない。正しさを保つことができる。
王の仕事に従事することがあっても、自分の成果とはせず、最後まで成し遂げる。
乾なら、自分の力を発揮する方向へ進みます。
坤では違います。
能力はある。
仕事もできる。
しかし、「これは私がやった」と自分の功績にしない。
目的は、自分が評価されることではなく、物事そのものを完成させること。
だから、无成有終。
「自分の手柄としての成はない。しかし終わりを成し遂げる。」
非常に坤らしい言葉です。
六四 括囊。无咎无誉。
袋の口を括る。咎もなく、誉れもない。
状況が危うくなったら、あえて口を閉じる。
余計なことを言わない。
無理に自分を主張しない。
すると、評価されることもない。
しかし、失敗することもない。
乾なら「いつ動くか」が重要でした。
坤では、いつ受け、いつ控えるかが重要になります。
何もしないように見えることも、一つの判断なのです。
六五 黄裳。元吉。
黄色い裳。大いに吉。
九五の乾は、飛龍在天でした。非常に華やかです。
ところが坤の六五は、黄裳。「裳」は下半身に着る衣。つまり、最も高い位置に来ても、坤は上へ出ようとしません。
高い位置にありながら、自分を上に置かない。内側に徳を持ち、それが自然に外へ現れている。
だから、元吉。となります。
乾の九五と坤の六五を並べると、とても面白いです。
乾九五:飛龍在天――力が最もふさわしい場所で発揮される。
坤六五:黄裳元吉――高い位置にあっても、柔らかく下にいる。
まったく違う完成形です。
上六 龍戦于野、其血玄黄。
そして突然、龍が登場します。
龍、野に戦う。その血、玄黄。これは非常に重要です。
坤なのに、最後に龍が出てくる。なぜでしょう。
陰が極まり、自らが主体となって陽と争うようになる。
乾と坤。陽と陰。本来、互いに補い合うはずの二つの力が争い始める。その結果、双方が傷つく。
後世になると、「玄」は天の色、「黄」は地の色として解釈されます。
つまり、天と地、陽と陰の双方の血が流れる。
坤もまた、極まれば問題を生むのです。
乾が極まると、亢龍有悔。
坤が極まると、龍戦于野。
ここには見事な対称性があります。
そして「用六」
乾には、用九 見群龍无首。吉。がありました。
坤にも特別な一文があります。
用六 利永貞。 永く貞を保つことが利である。
どういうことかというと、状況が変わっても、自分から主導権を奪おうとせず、受け取ったものを最後まで正しく支え続ける。その姿勢を持続することがよい。という意味です。
「永貞=坤としてのあり方を、最後までぶらさず保つこと」それが利なのです。
例えば、ある人が新しいプロジェクトを考えたとします。
「こんなサービスを作りたい。」これが乾的な始まりの力だとします。
それを受け取った人が、計画を具体化する。必要な人を集める。予算を管理する。問題が起これば調整する。予定が変われば対応する。そして最後まで完成させる。これが坤的な働きです。
ところが途中で、「実際に動かしているのは私なんだから、もう私のプロジェクトだ」となって、最初の目的そのものを自分の都合で変え始めたらどうなるでしょう。
ここで坤は、坤ではなくなっていくのです。
だから「利永貞」という注意点があるのです。 「最後まで自分の役割を見失わないこと。」
もちろん、「ずっと従え」という意味ではありません。
ここは特に大切です。坤が従う対象を「人」と限定してはいません。与えられた方向、目的、状況、自然の流れと考えた方がこの時代の解釈にはあっています。
約3000年前の坤為地物語
一人の人物がいました。
その人は、周囲で起こっている小さな変化によく気づく人でした。
まだ誰も気にしていない小さな兆しを見て、「これから何かが変わる」と感じ取ることができました。
だから、無理に自分から動かず、まず状況をよく見ました。
履霜、堅冰至。
やがて仕事を任されました。その人は、自分のやり方を押しつけるのではなく、与えられたものを受け止め、それが育つ環境を整えました。
直方大、不習无不利。
優れた能力もありましたが、その能力を見せびらかすことはありません。
大きな仕事を任されても、「自分の功績だ」とも言いません。
ただ、最後まで仕事を完成させました。
无成有終。
そのため、状況が危険になったときには、あえて何も言わないことも選べました。
評価されなくても構わない。今は余計なことをしない方がよい。そのため、運が落ちることもありません。
括囊。无咎无誉。
やがて、その人は重要な位置に立つようになります。しかし、地位が高くなっても、自分を大きく見せようとはしません。
前に出なくても、人々が安心して働ける環境を自然に作っていたのです。
黄裳。元吉。
ところが、その人も、いつしか思い始めます。
「自分のやり方こそ正しい。」
「自分が決めた方がよい。」
「もう人に従う必要はないのではないか。」
受け入れる力だったはずの人物だったのに、自らすべてを支配しようとしてしまいます。
すると、龍戦于野。となります。
乾が「進みすぎる」と失敗したように、
坤も、受ける力が、自ら主体となって相手を押さえ込もうとすれば、本来の働きを失う。
だから坤にも「極まり」があるのです。
なぜ牝馬(ひんば)なのか?
乾では「龍」でしたが、坤ではなぜ、「牝馬」なのでしょうか?
牝馬は「弱く従うもの」の象徴というより、「柔順でありながら、どこまでも進み続けられる力」を表すものとして後世には解釈されました。
しかし、周易の時代の女性は、後世の儒教社会における「夫に従う女性」のイメージではありません。孔子より数百年も前の時代、まだそのような概念はありませんでした。
牝馬は地に属するもの。
大地をどこまでも進む。
柔順でありながら、その道を守って進む。存在。
私たちは「陰」「順」「従う」と聞くと、消極的・弱い・自分では動かないと想像しがちですが、馬です。
馬は弱い動物ではありません。だから坤は、動かない力ではなく、方向を受け取ったら、その方向へ粘り強く進み続ける力なのです。
では、なぜ「牛」ではなく「馬」なのか
古い注釈には、行天者莫若龍、行地者莫若馬
―天を行くものとして龍に勝るものはなく、地を行くものとして馬に勝るものはない―という説明があります。
乾:龍――天を動く。
坤:馬――地を動く。
つまり重要なのは、「雄/雌」以前に、天を移動する存在と、地を移動する存在という対比なのではないか、という見方ができます。
なぜ「牝」なのか
儒学的な解釈が加わると、「牝馬」には次第に、陰は陽に従う、女性は男性に従うという意味合いも重ねられていきます。
しかし、約3000年前の『周易』ではそのような固定概念はありません。
では、なぜ単なる「馬」ではなく、「牝馬」だったのでしょうか。ここからは、私なりの想像も含めて考えてみたいと思います。
馬は、決して弱い動物ではありません。大きな力を持ち、長い距離を走り、人や荷物を運び続けることができます。
その一方で、雄馬には競争性や繁殖期の強い行動が現れることがあります。
牝馬にも発情周期があり、個体差も大きいため、「牝馬だから常におとなしい」とはいえませんが、それでも古代の人々は、牝馬の中に、「方向を受け取り、その道を黙々と進み続ける強さ」を感じたのではないでしょうか?
自分勝手に好きな方向へ走るのではない。
しかし、弱いから従っているのでもない。
行くべき方向が定まれば、大地をしっかりと踏みしめ、遠くまで歩き続ける。
柔らかいけれど、弱くない。
従うことができるけれど、止まっているわけではない。
自ら方向をつくらなくても、目的地まで運ぶ力を持っている。
そんな牝馬の姿は、坤為地の性質を考えるうえで、とても示唆的です。
第二の旅――『易伝』は坤をどう読んだの
周易から数百年後、孔子の時代になると、坤は単なる「地」から、宇宙の生成原理へと大きく展開されます。
十翼のひとつ、『彖伝』には、至哉坤元、萬物資生、乃順承天。とあります。
大意は、偉大なるかな坤の元。万物はこれによって生まれ、天の働きを受け継ぐ。
乾の『彖伝』は、大哉乾元、萬物資始、乃統天。でした。
並べると、
乾―萬物資始
万物が「始まる」。
坤―萬物資生
万物が「生まれ育つ」。
つまり、乾が始め、坤が生む。となり、地勢坤。君子以厚徳載物。
乾では、天行健。君子以自強不息。
でした。
乾は、
自ら強くあり続ける。
坤は、
厚い徳によって物を載せる。
ここでも対になっています。
第三の旅――程頤の坤為地
約3000年前の『周易』では、霜、牝馬、袋、黄色い裳、龍の戦い……という、非常に具体的で謎めいたイメージが並んでいます。
それが約2000年後、程頤の手にかかると、「人間はいかに自分を修め、社会の中で正しい位置を守り、道に従って生きるべきか」という解釈に変わります。
程頤にとって坤の中心は、順です。
しかし、この「順」は単なる服従ではありません。
「自分が主になる」のではなく、道に従って成し遂げる
一人の有能な人物がいました。頭もよく、行動力もあります。
自分で考え、自分で決め、自分で物事を進めることもできました。
しかし程頤は、この人物に最初から一つの問いを投げかけます。
「あなたに力があることと、あなたが主であることは同じだろうか。」
ここから、坤の物語が始まります。
牝馬之貞――力はある。しかし、自分で道を決めない
その人物は、牝馬のようでした。遠くまで走る力がある。
荷物を運ぶ力もある。目的地まで進み続ける強さもある。
しかし、自分勝手に方向を決めて走り出すのではありません。
程頤にとって、ここに坤の「順」があります。
能力がないから従うのではない。
能力を持ちながら、正しい道に自分を従わせる。
それが坤です。
先迷後得主――「私が先に」は、坤の道ではない
あるとき、大きな仕事が始まりました。その人物には、自分で方向を決める能力もあります。
そこで、「私ならこうする」と先頭に立とうとしました。
しかし、迷いました。
なぜなら、坤の役割は目的そのものを自分で作ることではなかったからです。
そこで一度、自分を引きます。
「この仕事は、そもそも何のために行われているのか。」
「私は何を求められているのか。」
「従うべき道はどこにあるのか。」
それが分かったとき、迷いが消えました。
先迷、後得主。ここでいう「主」を、程頤は単なる「上司」としては読まず、人間が従うべき正しい道・正しい秩序の問題へと広げていきます。
履霜堅冰至――小さな乱れを放置しない
ある日、その人物は小さな問題に気づきました。
「これくらいなら問題ないだろう。」周囲はそう言います。
しかし、その人は見過ごしません。
霜を踏む季節になれば、その先には氷が来る。
程頤はここに、自然観察だけではなく、人間の善悪や社会秩序の問題を読み込みます。
小さな悪を放置すれば、やがて大きくなる。
小さな秩序の乱れを、「この程度なら」と許しているうちに、取り返しがつかなくなる。
だから君子は、まだ小さいうちに兆しを見抜くのです。
直方大――自分を正せば、無理に作らなくてよい
その人物は、次第に気づきます。人からよく見られようとする必要はない。技巧を凝らして、自分を立派に見せる必要もない。
大切なのは、内面が「直」であり、行動が「方」であること。
自分の心がまっすぐで、行動が道理にかなっていれば、その徳は自然に広がっていく。
だから、不習无不利。無理に作り込まなくてもよい。
程頤にとって坤は、ここで人間の修養の物語になっていきます。
含章可貞――才能を見せびらかさない
やがて、その人物の能力が認められ、大きな仕事を任されました。
しかし、自分の才能を前面には出しません。
含章。美しいものを内に含む。
仕事を成功させても、「私が成功させました」とは言いません。
なぜなら、自分の目的は名声ではなく、道に従って仕事を完成させることだからです。
无成有終。自分の「成」(成功)としない。しかし、最後までやり遂げる。
ここに程頤が理想とする、臣下・補佐者・君子の姿が強く現れます。
括囊――正しいことでも、言えばよいとは限らない
難しい局面が訪れました。その人物には意見があります。
しかも、おそらく正しい。しかし、今それを言えば争いが起きる。
そこで黙ります。括囊。
程頤の世界では、「正しいことを知っている」ことと、「今それを言うべきである」ことは別です。
時と位置を見なければならない。
だから、无咎无誉。褒められなくてもよい。
今は過ちを起こさないことの方が重要なのです。
黄裳元吉――高い地位ほど、下にいる
そしてついに、その人物は高い地位に立ちました。
ここで普通なら、「これからは自分が決める」となります。
しかし程頤の坤は、逆です。
地位が高くなるほど、自分を低く置く。
だから「黄裳」。
外側を華やかに飾って権威を示すのではない。内側に徳を持ち、自分は下にいる。力を得ても、自分を主にしない。
ここに坤の徳の完成を見ます。
龍戦于野―ところが、「自分こそ主だ」と言い始める
その人物は長い間、組織を支えてきました。誰より事情を知っています。実務も自分が担ってきました。
そして、ある日思います。
「実際にここまでやってきたのは私ではないか。」
「だったら、私が決めてもいいはずだ。」
ここで坤の「順」が崩れます。
本来、支える側だったものが、自ら主になろうとする。
程頤は「龍戦于野」を、単なる自然現象ではなく、陰陽の正しい秩序が崩れた状態として読みます。
陰が盛んになりすぎて陽と争う。その結果、其血玄黄。双方が傷つく。
用六 利永貞――最後まで坤の道を失わない
そのため、最後に、利永貞。が置かれているのです。
力を得ても、成功しても、地位が高くなっても、自分が従うべき道を見失わない。
これこそ程頤にとっての坤の徳です。
第四の旅――朱熹の坤為地

朱熹は、乾について、陽之純而健之至としました。それに対して坤は、陰之純、順之至という構造になります。
つまり、陰が混じりなく純粋で、「順」の働きが極まったもの。
朱熹の解釈の特徴は、六本すべてが陰である「純陰」の力が、位置を変えながらどう働き、極まったときどう陽へ転じるのかを重視したことでしたよね?
その視点からみてみましょう。
――受ける力が、世界を形にしていく物語
一人の人物がいました。
その人には、強い意志も能力もありました。
けれど、その人の力は、「私が世界を動かす」という形では現れません。
目の前に起きていることを受け取る。相手を見る。状況を見る。
そして、今、自分が置かれている場所で何をすべきなのか
を考えて行動することで、発揮される能力でした。
朱熹が坤を考えるとき、重要になるのは、陰之純、順之至という考え方です。
六本すべてが陰。何かが不足しているのではありません。
「陰」という一つの働きが、混じりなく現れている。
それが坤です。
牝馬之貞――柔らかい。しかし、進む力がある
その人物を、朱熹は牝馬に重ねます。
牝馬は柔順です。しかし弱くはありません。長い距離を進む力があります。
朱熹は牝馬を、「順而健行者」順でありながら、健やかに進むもの―として説明します。
ここが重要です。
坤は、「何もしない陰」ではなく、方向を受け取ったら、その方向へ進み続ける力です。
初六 履霜、堅冰至
―変化は、突然起こらない
ある朝、その人は霜を踏みました。まだ薄い霜です。しかし、このまま寒さが進めば、やがて堅い氷になる。
朱熹はここに、陰が少しずつ成長していく過程を見ます。
最初は兆しにすぎないが、陰は、一段ずつ増えていく。
だから大切なのは、完成した結果だけを見るのではなく、変化が始まった場所を見ること。
その人は、小さな変化を軽視しませんでした。「まだ大したことではない」ではなく、「これは、どこへ向かっているのだろう」と考えます。
これこそ、現実的に目的を遂行していくのに必要な能力です。
六二 直方大、不習无不利
――坤そのものが、最も自然に現れる場所
やがて、その人は仕事を任されます。ここで無理に自分を作りません。
自分を大きく見せない。技巧を使って評価されようともしない。
ただ、まっすぐ受け取り、正しく形にしていく。
六二は下卦の中央です。しかも陰爻が陰の位置にあります。
朱熹にとって、ここは坤の性質が非常に自然に発揮される場所です。
だから、不習无不利。わざとらしく作り込まなくてもよい。
自分の性質と、自分のいる位置が合っているからです。
ここに朱熹らしい視点があります。
六三 含章可貞
―能力があっても、今は表に出さない
その人には才能がありました。周囲も、それに気づき始めます。
しかし六三は、六二とは位置が違います。そこで、その人物は自分の才能を前面に出しません。
含章。
内側に美しいものを含んでいる。能力がないから隠しているのではありません。
能力はある。しかし、その能力をどう現すかは位置によって変わる。
王の仕事に携わることになれば働く。けれど、
无成有終。自分の成果として誇るのではなく、仕事そのものを最後まで完成させる。
六四 括囊
――力があっても、位置によっては閉じる
さらに位置が変わります。六四は、下卦から上卦へ移ったところ。危うい場所です。
その人物には意見があります。能力もあります。
しかし、今ここで自分を表に出すべきではない。そこで袋の口を閉じます。
括囊。何もしないのではありません。「出さない」という選択をする。
すると、无咎无誉。
失敗もしない。しかし、誉れもない。
朱熹の読み方で面白いのは、同じ能力を持つ人でも、位置が変われば正しい行動が変わるということです。
六五 黄裳、元吉
―高い位置に来ても、陰として働く
そして、その人物は高い位置に立ちました。ここは乾の九五と比較すると非常に面白いところです。
乾の九五は、飛龍在天。龍が天を飛ぶ。力と位置が一致し、能力が大きく発揮されます。
ところが坤の六五は、黄裳。「裳」は下に身につける衣です。
その人は大きな権限を持つようになりました。
しかし、「私がトップだ」と力を誇示しません。
高い位置にいながら、下にいる者のように働く。
だから、元吉。
ここには、位置が高くなっても、坤の性質を失わないという完成があります。
上六 龍戦于野
―陰が極まる
ところが、さらに進みます。陰が一番上まで来ました。
六本すべて陰。これ以上、上はありません。
陰が極まった。
ここで突然、龍が登場します。
龍戦于野、其血玄黄。
なぜ坤なのに龍なのか。
朱熹の構造から考えると、ここが面白い。陰が極まり、陽と対抗するほどになった。
本来、受ける側だった力が、自ら主となろうとするほど強くなった。
そこで陽と陰が衝突する。双方が傷つきます。
朱熹が見ているのは、陰が悪いということではありません。
問題は、極まったこと。これは乾とまったく同じです。
乾では陽が極まり、亢龍有悔。
坤では陰が極まり、龍戦于野。
陽も陰も、極まれば、そのままではいられない。
そして「用六」
利永貞
ここで、朱熹の坤為地の物語は大きく動きます。
坤には、通常の六爻とは別に、用六 利永貞。があります。
朱熹の占筮体系では、これは坤の六つの陰爻がすべて変わる場合に用います。
すると、
☷☷ 坤
だったものが、
☰☰ 乾
へ変わります。
すべて陰だったものが、すべて陽へ変わる。
ここで朱熹の世界がよく見えてきます。
陰は永遠に陰ではない。陽も永遠に陽ではない。
極まれば、変わる。
その人物にも、変化の時が来た
ずっと人を支えてきた人物に、ある日、新しい役割が与えられました。
今度は、自分が決断しなければならない。
これまでのように、誰かが方向を示してくれるわけではありません。
自分が方向を決める。
自分が始める。
自分が責任を負う。
つまり、坤から乾へ。その人の役割が変わったのです。
ここで重要なのは、「私は坤だから、いつまでも人に従います」ではありません。
それでは変化を拒んでいることになります。
坤が極まれば、乾へ変わる。役割が変われば、自分も変わらなければならない。
しかし――「利永貞」
では、乾になった瞬間、それまでの坤を全部捨てればよいのでしょうか。
そうではありません。だから、利永貞。
これまで培ってきた、
人の話を聞く。
状況を見る。
受け取る。
支える。
育てる。
最後まで完成させる。
その姿勢を失わない。
今度は自分が決断する立場になっても、受け取る力を持ったまま、動かす側になる。これが非常に重要です。
乾の用九と、坤の用六
ここまで来ると、乾為天と坤為地が鏡のようになります。
乾は最初、純陽。自ら動く。始める。前へ進む。
しかし極まったところで、
群龍无首。吉。
朱熹の占筮的理解では六陽がすべて変じ、坤へ向かいます。
つまり、動かす者が、受けることを学ぶ。
一方、坤は、純陰。
受ける。支える。育てる。完成させる。
しかし極まったところで六陰が変じ、乾へ向かう。
つまり、受ける者が、動かす側へ変わる。
ここに朱熹の乾坤を一組として読む面白さがあります。
程頤と朱熹の違い
物語として一言で分けるなら、
程頤の坤は、
「力を持っていても、自分を主とせず、道に従って生きることを学ぶ物語」
それに対して朱熹の坤は、
「同じ力でも、置かれた位置によって働き方が変わり、陰が極まれば陽へ転じることを学ぶ物語」
とすると分かりやすいと思います。