易の興るや、それ殷の末世、周の盛徳の時に当たるか。
文王と紂との事に当たるか。
この故に、その辞は危し。
危うき者をして平らかならしめ、
易(やす)き者をして傾かしむ。
その道は甚だ大にして、百物廃れず。
懼れをもって終始し、
その要は咎なし。
これを易の道という。
訳
易経が生まれたのは、
殷王朝が滅びようとしていた時代であり、
周王朝が興ろうとしていた時代であった。
それはちょうど、
賢君である文王と、
暴君である紂王が対立していた激動の時代…。
だから易経の言葉には、
常に危機への意識が込められている。
危険を自覚する者は安定へ向かい、
安定に安住する者は、
かえって転落していく。
しかし易の道は広大であり、
あらゆる物事に応用できる。
その根本は、
始まりから終わりまで、
常に慎みと警戒心を忘れないこと。
そうすれば大きな過ちは生じない。
これこそが易の道である。
危機感を持つ者が生き残る。
危険を感じられる人は慎重になる。
慎重になるから準備する。準備するから生き残る。
だから易経は言う。
「危者使平」
危機を知る者は平安へ向かう、と。
私たちは通常、危険と平安を対立するものだと考える。
危険がなくなれば平安になる。
そう思っている。
しかし易経は違う。
平安とは、危険が消えた状態ではない。
危険が存在することを知りながら、その変化に備えている状態なのである。
だから逆説的だが、危険を知る者ほど安定し、危険を忘れた者ほど崩れていく。
易経は続けて言う。
「易者使傾」
安易な者は傾く。
成功した。
うまくいっている。
もう大丈夫だ。
そう思った瞬間、人は変化を見なくなる。
世界は常に動いているにもかかわらず、自分だけが止まってしまう。
そして、止まったものから崩れていく。
これは国家も同じであり、企業も同じであり、人の人生もまた同じである。
禅には、
「悟ったと思うな」という言葉がある。
悟りとは到達点ではない。
むしろ、自分はまだ見えていないものがあると知り続ける姿勢である。
だから禅は、完成を目指さない。
完成したと思った瞬間に成長が止まり、成長が止まった瞬間に衰退が始まることを知っているからだ。
易経も同じである。
「懼以終始」
始まりから終わりまで慎む。
これは不安の中で生きよという意味ではない。
変化を忘れるな、という意味である。
春は必ず夏へ向かい、
夏は必ず秋へ向かい、
秋は必ず冬へ向かう。
盛は衰へ向かい、
衰はまた盛へ向かう。
変化しないものはない。
だから、今の状態が永遠に続くことはない。
この易経的真理を深く理解した人は、成功しても慢心せず、失敗しても絶望しない。
なぜなら、それもまた変化の途中であることを知っているからである。
暦学的に見るならば、運が良い人とは未来を当てられる人ではない。
変化の兆しを感じ取れる人である。
大きな嵐になる前に風向きの変化に気づき、
病になる前に身体の違和感に気づき、
人間関係が壊れる前に心の距離の変化に気づく。
だから修正できる。
だから大きく崩れない。
本当の知恵とは、未来を予言することではない。
変化に気づくことである。
そして本当の平安とは、変化のない世界に生きることではなく、変化する世界の中で静かに立ち続けることなのである。