易の書たるや、広大にして悉く備わる。
天道あり、人道あり、地道あり。
三才を兼ねてこれを両す。
故に六なり。
六なる者は、他にあらず。
三才の道なり。
道に変動あり。
故に爻という。
爻に等あり。
故に物という。
物あい雑わる。
故に文という。
文、当たらず。
故に吉凶生ず。
現代語訳
易という書には、天地のあらゆる原理が広く備わっている。
そこには、
天の道、
人の道、
地の道
が含まれている。
そして、この天地人の三つの道を、陰陽によって重ね合わせたものが六爻である。
つまり、六爻とは単なる六本の線ではない。
天地人という宇宙の構造そのものを表しているのである。
世界は常に変化している。
だから、その変化を表すものを「爻」と呼ぶ。
そして、それぞれの爻には、
- 上下
- 貴賤
- 強弱
などの違いがある。
だから、それを「物」と呼ぶ。
さらに、それらが複雑に交わり合い、模様を作る。
それを「文(あや)」という。
しかし、その配置が常に正しいとは限らない。
位置が適切でないとき、
そこに吉凶が生まれるのである。
変化を動かす構造―六爻
世界は、「天・地・人」の三つが重なり合うことで動いている。
天道
―時代の流れ、気候、時勢、宇宙の運行
地道
―土地、環境、現実条件、社会の状況
人道
―判断、感情、倫理、政治、人間の営み
易経は、この天地人を「三才」と呼ぶ。
そして、この三才をさらに陰陽に分けることで、六つの構造が生まれる。
天の陰陽
人の陰陽
地の陰陽
つまり、
天地人(3)× 陰陽(2)= 六爻
である。
六爻とは、単なる六本の線ではない。
世界を動かしている、六つの変化構造そのものである。
易経は言う。
「道有変動、故曰爻」
道は常に変化している。
だからこそ「爻」と呼ぶのだ、と。
つまり爻とは、静止した記号ではない。
変化し続ける世界の状態を示したものなのである。
さらに易経は続ける。
「爻有等、故曰物」
爻には、
上下
中央
陰陽
貴賤
などの違いがある。
つまり、それぞれに異なる役割が存在している。
だから「物」と呼ぶ。
ここでいう「物」とは、単なるモノではない。
“役割を持った存在”
という意味である。
そして、
「物相雑、故曰文」
世界は、
天だけでも動かない。
人だけでも動かない。
地だけでも動かない。
それらが交わり、影響し合い、複雑な模様を生み出す。
易経は、その模様を「文」と呼んだ。
ここでいう「文」は、文章の意味ではない。
模様。
パターン。
構造。
つまり易経は、世界を“構造パターン”として見ているのである。
さらに易経は言う。
「文不当、故吉凶生焉」
吉凶は偶然ではない。
配置が崩れると凶になり、
配置が適切であれば吉となる。
つまり、
構造が適切であるかどうか。
そこに吉凶の本質がある。
これは現代で言えば、システム論に近い。
例えば会社組織でも、
どれほど優秀な人材でも、配置が悪ければ機能しない。
逆に、
突出した能力がなくても、適切な位置に置かれることで成果を出す人もいる。
つまり問題は、能力だけではない。
構造なのである。
では、どうすれば構造を整えることができるのか。
私は、そのためには「天地人」を静かに観察する視点が必要だと思う。
天―時代はどこへ向かっているのか。
地―現実社会では何が起きているのか。
人―人々は何に不安を抱き、何を求めているのか。
特に「地」は重要である。
現場に行かなければ見えないものがある。
数字だけでは分からない空気。
SNSだけでは分からない現実。
実際に人と会い、その場に立たなければ感じられない流れ。
易経は、本来そうした“現場の変化”を読む学問でもあった。
では、その変化の中で、人はどのように判断すればよいのか。
その判断技術として、易経思想と共に発展していったものの一つが、算命学の流れをくむ「暦学」である。
暦学とは、単なる占いではない。
天体運行、季節循環、陰陽五行、干支体系を用いながら、
「人間が、どのような構造の中に置かれているのか」
を読み解こうとした、古代東洋の構造認識学である。
つまり暦学は、
未来を決めつけるための技術ではなく、
変化する世界の中で、
人がどの位置に立ち、
どの流れに乗り、
どのタイミングで動くべきかを考えるための知なのである。
だから本来の暦学は、
運命論ではない。
むしろ、
「変化する世界の中で、どう構造を読むか」
という、極めて現実的な判断学なのである。
山脇史端
