七十二候では
それでは、立春期間の七十二候について、それぞれ見て行きましょう。
初候
まず立春の初候ですが、期間は2月4日から2月8日までです。
全七十二候の一番目を表す初候は、略本暦(日本)宣命暦(中国)が共に東風解凍(はるかぜ こおりを とく)となっています。東風は一般には「こち」とも読みますが、菅原道真が詠んだ「東風吹かば~」で大変有名ですので知っている人も多いと思います。ここでいう東風(こち)とは、春の風が冬の寒風に比べて、やわらかな事から、小さな風と呼ばれています。すなわち「こち」の「こ」は「小」ということ、そして「こち」の「ち」は風の古い言い方であったために、「こち」と呼ばれたのです。
東風(こち)は文字通り東から吹いてくる風のことで平安時代の雅語(がご)として古くから使われてきた言葉です。こうした古くから言われている風向きの言葉には、南風(はえ)、北東風(ならい)、東南風(いなさ)あるいは北西風(あなじ)というような表現があるそうですが、日本語は奥が深く美しいですね。
さて、東風解凍の意味ですが、これは気温が上がってきて東風が厚い氷を解かし始めると言う意味になります。東風が吹くようになるといよいよ冬も終わり春到来となるので、人々に喜ばれる風だったという事です。実際に温かい風が吹く海風は、中国では黄海や東シナ海からやって来るので、風の方角は東になるのです。
しかし周囲を全て海に囲まれる日本では、中国の場合とは条件が異なります。温かい風は東と言うより南から吹いてくる場合が圧倒的に多いのです。つまり、冬から春にかけての時期日本に吹く風は、日本海低気圧と南岸低気圧の影響によるものが多いのですが、南岸低気圧からは温かい風は吹いてこないのです。日本海低気圧が日本列島を横断するときに、その前半に南風が吹き込んで温かくなるのです。逆に低気圧が日本列島を通過する後半からは、冷たい北西の風が吹き込んでくる形になるのです。つまり温かい風は、東の方向ではなく南の方から吹いてくるのです。
中国では東風でも、日本人の感覚としては南風のほうが温かいというのが正直な感想なのではないでしょうか。
次候
次候は、2月9日から13日までです。
略本暦(日本)は、「黄鶯睍睆(うぐいすなく)」となっていて、意味はウグイスが山里で鳴き始めると言う事になります。ここで言うウグイスとは、「鶯」ではなく「黄鶯(こうおう)」です。「七十二候鳥獣虫魚草木略解」という本の中では、この「黄鶯睍睆(こうおうけんかん)」は「黄鳥睍睆」と書かれており説明がされております。黄鳥=黄鶯(こうおう)とは、コウライウグイス(カラウグイス)のことであるとも書かれています。もちろん、日本のウグイスとは別の鳥です。
日本のウグイスは、誰もが知っている通り地味な緑褐色で、オリーブの実のピクルスのような色です。言葉で表すのが難しい色ですが、一般にはウグイス色などと表現されたりします。生息区域は、日本やサハリン・中国東部などで繁殖し中国の南部や台湾などで越冬する鳥で、オスの体長が16㎝です。
このウグイス、春告げ鳥として「ホ~ホケキョ」と心和む鳴き声を聞かせてくれますが、この鳴き声は繁殖地でしか聞くことができません。つまりペアリングのためのアピールがあの素晴らしい鳴き声なのです。良い声で歌えないと繁殖相手が見つからないという事になりかねないので、若いウグイスは上手に鳴けるよう一生懸命練習をします。中には練習の成果なく、下手くそなウグイスもいるのです。
これに比べ、コウライウグイスは、見た目もかなり違っていてオスは黄色いカナリアのようなきれいな羽毛をしています。ただ全身黄色ではなく眼過線と呼ばれる目を通る黒い筋が入っており、風切羽も黒っぽいのも特徴です。さらに大きさも体長が26㎝と日本のウグイスに比べかなり大きくなっています。コウライウグイスの名の通り、この鳥は日本には生息しておらず、インド、カンボジアなどの東南アジア諸国や中国・韓国・北朝鮮などに生息している鳥なので、日本のウグイスとはだいぶ違います。
また「黄鶯睍睆」の「睍睆(けんかん)」とは、鳴き声が美しいことを表している言葉なのですが、実際のコウライウグイスの鳴き声は、三鳴鳥として美声の誉れ高い日本のウグイスほどきれいではありません。
中国で作られた宣命暦の中には、コウライウグイスが「啓蟄」の次候の「倉庚鳴(そうこうなく)」という部分で出てまいりますが、日本で作られた略本暦にこの「倉庚鳴」とは別の「黄鶯睍睆」という表現でウグイスが表現されるのがとても不思議です。
これについては、良く調べてみますと、中国で春告げ鳥として知られた「黄鶯」を、略本暦で日本の鳥に置き換えようとしたとき、同じコウライウグイスはいなかったので、鳴き声が良く春告げ鳥として好まれていた「鶯」に置き換えられたのではないかという事が言われています。
また、中国との文化交流も深かった時代には、書画に書かれる春告げ鳥が黄色いコウライウグイスであったため、日本の知識人階級の中ではコウライウグイスがウグイスとして認識されていたため、黄鶯睍睆も違和感なく使われていたのではないのかということです。
次候の宣命暦は、蟄虫始振(ちっちゅう はじめて ふるう)となっており、冬籠りの虫が動き始めるという意味になります。地中に籠って越冬している虫が「蟄虫」という意味ですから、気温が徐々に温かくなり始めて蟄虫が動き出す様子を表しているのです。秋分の次候にある「蟄虫坏戸」は、ここで書かれた動きとは逆の行動になります。宣命暦の七十二候の中には、立春の「蟄虫始振」、秋分の「蟄虫坏戸」、そして霜降に「蟄虫咸俯」の3つがあり、略本暦では啓蟄に「蟄虫啓戸」があり宣命暦と同じ秋分に「蟄虫坏戸」の2つがあるのです。以前も触れましたように、「虫」がいわゆる昆虫という意味だけではないことを考えると、世の中の色々なものが蠢き出す時期なのだろうと感じます。
末候
最後に末候ですが、2月14日から2月18日まで、雨水の前日までが期間となります。
略本暦(日本)では、魚上氷(うお こおりを のぼる)となっていて、宣命暦も同じです。
割れた氷の間から魚が飛び出るという意味とされているのですが、自分の少ない経験から言えば水温があたたかくなり氷が融けだしてくる時、魚が氷の隙間から飛び出すという情景には出会ったことはないのです。ようやく氷が融ける程度の水温では、魚はまだ活発に動く状況にはないのです。ただ、ウグイスが鳴き始めるころには氷も解け始めて、川底の深いところで魚たちも動き始め、時には氷の上に飛び出してくるという事なのでしょう。
それにしても水と言うのは、とても不思議な性質を持っています。水は、摂氏4度の時に一番比重が重くなるので、4度になるまでどんどん下に沈み、それ以上に冷たくなると水は軽くなって沈まなくなるのです。さらに冷えると水面が凍って、浮いた氷はどんどん厚くなっていくのです。この水の特性があるから水中の生き物は生存することができるのです。もし も氷が水よりも重かったら、外気温の低い表面で氷った氷は塊になって沈み、全ての水生生物を死に至らしめる結果になるのです。氷が浮くというのは、魚を含む水生生物が生きていくためになくてはならない大切な性質なのです。
七十二候の「魚上氷」も、これが作られた中国の状況から考えれば海の魚の話ではなさそうなので、淡水魚ということなのでしょう。では、どんな魚が飛び出して来ると言うのでしょうか。180種類以上の魚類がいるという巨大な黄河であっても、寒い年には全面結氷すると言うのですから、想像力が掻き立てられます。