春分は、二十四節気の4番目で、太陽黄経は0度となります。
太陽黄経とは、太陽が天球上を通る経路(黄道)を等角に分割した座標のことで、春分点をゼロとして360度に分けています。座標が0(ゼロ)という事は、春分点がスタート地点だと言う意味です。
天文学的には、黄道と天の赤道との交点(分点)のうち、黄道が南から北へ交わる方の点(昇交点)を太陽が通過する瞬間を春分といいます。もう一方の交点が太陽黄経180度の秋分となるのです。※太陽黄経の図を参照してください
春分日とは、この座標ゼロを通過する日のことです。二十四節気の「春分」は、この日から次の節気である「清明」の前日までという事になるのです。
しかし春分の日が春分の日たるためには、単に天文学的に座標を通過するだけではだめで、国立天文台が発行する「暦象年表」という冊子に基づき公告されなければならないのです。国立天文台の今年の暦象年表を見て見ますと、二十四節気の春分日は2019年3月21日で、この日から4月4日までがその期間となっています。
春分は、昼と夜の長さがほぼ等しくなると言われているのですが、なぜ昼と夜の時間が短くなったり長くなったり変化するのでしょうか。
これは誰もが知っている通り、公転軌道に対して地軸が傾いているからです。
では、なぜ地軸が傾いてしまったのでしょうか。
この謎を解き明かす説はいくつかありますが、いま最も有力なのは「ジャイアントインパクト説」です。この説によれば、地球ができてそれほど時間がたっていない頃、原始惑星(ティア)が地球と衝突したことによって、地軸が傾いたとされているのです。そして地軸の傾斜によって、地球上に四季が生まれ昼夜の時間が変化するようになったのです。そして、この衝突によって生まれたのが月だとも言われているのです。それ故に地球と月は、兄弟星だということなのです。
もしもこの衝突がなければ、地軸は傾かず四季は生まれなかったでしょうし、お月様も存在しなかったかもしれません。つまり、間接的ではありますが惑星の衝突(ジャイアントインパクト)が二十四節気を産み出したとも言える訳です。
二十四節気の中でも春分と秋分、夏至と冬至の2至2分は誰にも良く知られています。特に暑さ寒さも彼岸までと言われるように、春分・秋分は仏教行事であるお彼岸と共に日本人の生活に密着した節季であると言えます。
お彼岸の時に太陽が真西に沈むことから、夕日を礼拝し西方浄土(極楽浄土)に祈れば、成仏できると信じられたのが由来の様です。やがて先祖供養と相まって、現在の形に定着したと言われています。つまり、仏教の教えと日本古来の自然信仰が結びついた日本独自の行事なのです。こうしたお彼岸の行事は、平安時代から行われていたと言いますから、すでに千年以上の歴史があります。過去から未来へのつながりの中で受け継がれ、これからも続けられていく行事です。逆にだからこそ、大事に語り継がねばならない文化です。
暦便覧では
暦便覧では、「日天の中を行て昼夜とうぶんの時なり」と記されています。これは「ひてんのちうをいて、ひるよるとうぶんのときなり」と読みます。
直訳としては、「太陽の軌道が天の真ん中を通るので、昼と夜が当分になる時である」ということになるのです。ここで言う真ん中とは、天頂ではありません。いちばん南側を通る冬至といちばん天頂寄りを通る夏至との中間点、これを「日天の中(ちう=ちゅう)」と言っているのです。
暦便覧の秋分では、「陰陽の中分なれば也」という表現になっていましたが、これも春分と同じように昼夜の時間が同じだと言う意味になります。つまり、昼の時間が12時間、夜の時間が12時間という事です。
江戸時代の時刻の測り方
現在のように一日の長さを24等分にする「定時法」という時刻制度は、旧暦からグレゴリオ暦に切りかえられた、明治5年から使われるようになりました。では、明治の改暦まではどのような方法で時刻を表していたのでしょうか。
江戸時代の庶民階級では不定時法が使われていました。不定時法では、一日を12の時振(じしん)に区切り、それに十二支を当てはめていました。この十二時辰とは、暦の伝来と同じ頃に中国から来た時間の表し方で、昼を6分割、夜を6分割し、一日を12分割とするのです。そして、その1分割を一刻とし、十二支と同じ呼び方である子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥を当てはめて表しました。1日を12で分けるのですから、一刻は基本的に2時間になるのです。
そして、この不定時法では日の出と日の入りを基準としていることも特徴です。日の出30分前を明け六つとし、日没30分後を暮れ六つとして昼夜をそれぞれ6分割しました。
日本には四季がありますから、当然夏と冬では日の出・日の入りの時間に違いが生じます。そのため一刻の長さは、季節や緯度などによって違っていたのです。昼間の時間が長い夏至のころの一刻は、おおよそ2時間40分ほど、逆に昼間の時間が短い冬至のころの一刻はおおよそ1時間50分ほどと一刻の長さに50分ものずれがあったのです。しかし電気のない時代ですから、お日さまの高さで時刻が分かるこの不定時法は、当時の人々の生活には意外と便利な時法だったかもしれません。一般庶民が時計など持たない時代においては、日が暮れたらならば今日の仕事は終わりと言う生活が当たり前で、特に不自由も感じることは無かったでしょう。
小江戸川越には、城下の人々に時を告げるための鐘つき堂である「時の鐘」が今でも残っていますが、のどかな時間が流れていたのだと思います。
太陽と月と共に生活をする、つい120年前まではそのように私達の生活は営まれていたようです。