二十四節気 季節で感じる運命学、今回は「処暑」です。
早起きをして犬の散歩に出ると、朝露の雫で足先が濡れる様になりました。まだ暑い日もありますが、朝夕の風が涼しい日が増えてきているように思います。そして真っ赤に染まった夕焼けが見られる日も、多くなっているような気がいたします。
暦便覧では、処暑を「陽気とどまりて、初めて退きやまむとすれば也」という表現をしています。これは「暑さが峠を越えて、ようやく後退し始める頃」という意味です。元々「処(しょ)」という文字は、「いる」とか「とどまる」「止む」というような意味があり、陽の気が止んで暑さも後退すると言っているのです。
処暑
処暑は、二十四節気の14番目にあたり、太陽黄経は、150度になります。今年は、8月23日から9月7日までとなります。
この期間中の9月1日頃は雑節の210日にあたります。つまり、立春から数えて210日目という意味なのですが、実はこの日は、古来より台風が多い日とされているのです。
雑節というのは日本人の生活感覚から生まれたもので、農作業などに合わせた季節の目安としてできたものです。
今年は、例年と異なる時期・ルートをたどる台風がいくつも襲来しています。ゲリラ豪雨など局地的な集中豪雨も頻繁に発生していますので、最近は従来の日本人の季節感覚とは全く違った気象状況のようです。
50年に一度
「50年に一度の大雨」と言われる強い降水量の地域があちこちにあり、不安に思っている人も少なくないのではないでしょうか。
そもそも「50年に一度の大雨」という言葉が使われるようになったのは、平成25年から。
そのため、実は新しい言葉です。
50年に一度というのは計算上2%の確率と言う事なので滅多にないはずなのですが、最近はしばしば耳にします。そして実際に、広い範囲で大きな被害が発生しています。
この気象配置は50年に一度しかこないという意味なのか、それともこの気象により被害が拡大する可能性は2%なので、50年に一度という表現を用いているのか。人々に危機意識を持って欲しいために、「50年に一度」という分かりやすい言葉を用いているのかもしれませんが、「50年に一度」という予報は、実は小さな地域ごとに区域を区切ってあるため、全国的に見ると、常にどこかで災害に関する警報が出されているように感じるのです。
「50年に一度」を連発すると、人々の感覚で汎用語となってしまい、危機意識が薄れていくことを心配します。
いかに、情報を伝えるのか、古の人々の知恵ともいえる二十四節気や七十二候を改めて学びなおすことは、現代においても情報の整理や判断にとても役立つのではないかと、そう感じるのです。
七十二候では
処暑の初候は、略本暦では「綿柎開(わたのはなしべひらく)」となっています。宣明暦では、「鷹乃祭鳥(たか すなわち とりを まつる)」となっています。
次候は、略本暦・宣明暦ともに「天地始粛(てんち はじめて さむし)」となっています。
最後に末候は、略本暦・宣明暦ともに「禾乃登(こくもの すなわちみのる)」となっています。 それでは七十二候を個々に見ていきましょう。
初候
処暑の初候は、略本暦では「綿柎開(わたのはなしべひらく)」となっています。直訳すると、「綿を包む咢(がく)が開く」という意味になります。
具体的に言うと、「はなしべ=がく」が開き始めるということです。花が開く時期ではありません。
綿の花は、オクラの花に良く似ていて7月頃に咲くのですが、これは共にアオイ科の植物だからです。花が咲いてから、4~50日で綿を包んでいる咢(がく)が開き始めるのです。
咢(がく)については、皆さんもご存じの事と思いますが、一般的には花の付け根で花びらを支える様についています。綿の花では、綿が外から見える様に出てくるまでは、咢(がく)が綿花全体を包んでいるのです。そして、咢がひらくと、その中のフワフワした綿毛が外に出てくるのです。綿毛の中には、種が入っていて、綿毛はその種の周りに生えています。
日本での綿花伝来はかなり古いのですが、伝来してすぐに一度途絶えてしまいます。その後の綿花栽培は、戦国時代後期からは全国的に綿布の使用が普及したことから、三河などで栽培が始まり、江戸時代に入ると急速に栽培が拡大しました。
昨年の大河ドラマで、井伊家が綿花栽培を行っていた様子が描かれていましたのを、興味深く見ておりました。丁度その頃、栽培が始まったようです。
略本暦の中に綿の花が出て来たのは、こうした暦史的な背景があってのことだろうと思います。
綿花栽培はその後も発展し、20世紀前半には日本の輸出量は世界一にまでになるのです。
綿と言えば、私が子供の頃の寝具は、どの家庭でも畳の上に敷かれた綿入りの布団でした。今ではベッドが主流になって、羊毛パッド等を敷き羽毛の掛け布団で寝ている人がほとんどではないでしょうか。
羽毛に比べると綿布団は重いので敬遠されるのですが、生まれたばかりの赤ちゃんには木綿の布団が一番良いのだそうです。吸湿・吸水性が良く、帯電しにくいためホコリがつかないからだそうです。
木綿を、もう一度見直して見るのも良いかもしれませんね。
「鷹乃祭鳥」
一方、宣明暦の初候では、「鷹乃祭鳥(たか すなわち とりを まつる)」となっています。「鷹が捕らえた鳥を並べて食べる」という意味なのですが、鷹が捕らえた鳥を並べて食べるとは、・・・・ その意味を調べてみました。
オオタカが餌をとる様子を見ていると、ドバトなどを追いかけて捕まえています。
捕まえたエサは、足で押さえてくちばしで引きちぎって食べています。ですから、宣明暦の中で言われるように「捕らえた鳥を並べて食べる」と言う事はしないように思うのです。
つまり、ここで言っていることは、実際の鷹の捕食を表現しているのではなく、別のものを比喩的に表現したのだと考えるべきなのではないかと思うのです。
では、何を比喩したのかと言う事が問題になります。ここで比喩を紐解くにあたっては、漢字の成り立ちを読み解くのが一番の近道のように思います。
ここで、まず一 番意味の分からない部分は「祭鳥」の部分でしょう。まず、「祭」の漢字の成り立ちをつぶさに見ていきますと、下の部分に「示」という文字があります。「示」は、神や社の文字に含まれる「しめすへん」と同じ意味になります。つまりは、宗教儀式に関係していると言う事なのです。次に上の左半分の文字ですが、ここは「肉」を意味しています。さらに上の右半分は、「又」という文字になります。又は、右手を表しているといわれています。つまり「神様にお供えする鳥肉を捧げる季節である」という事を言っているのではないかと、私は解釈しました。皆様は、どう考えますか。
七十二候には、今回の表現の様に意味不明な文章が随所に出てまいりますが、あれこれ想像し、考えを巡らせるのはとても楽しい事です。
次候
天地始粛
処暑の次候は、略本暦・宣明暦ともに天地始粛(てんち はじめて さむし)となっています。ここで意味が分かりにくいのは「始粛」です。「粛」には、縮むとか鎮まるというような意味があります。つまり夏の暑さがようやく収まってくると言う意味になるのです。読みとして(てんち はじめて しじむ(しゅくす)) ともいいます。
多少涼しくはなって来ていても「寒し」と言うにはまだ時期が早いでしょう。ただ、この頃から天気図の中に秋雨前線も見られるようになります。秋雨前線の北側には冷たい空気があり、日本がそれに覆われると秋が運ばれてきたような涼しく爽やかな気候になります。そして秋の深まりと共に冷たい空気に覆われる日が徐々に多くなり、季節が冬へと進んでいくようになるのです。
末候
禾乃登
処暑の末候は、略本暦・宣明暦共に禾乃登(こくものすなわちみのる)となっています。意味としては、稲が実るということなのですが、「禾」という字は本来アワを指す文字です。
中国における古代文明は、黄河と長江の2つの大河で発達したと言われていますが、黄河文明ではアワを主食とし、長江文明では稲(米)を主食としていたようです。このことから初めはアワの意味で、後に稲の意味が付加されるようになったといいます。そして現代では稲、稲わら、アワ、穀物の総称としての意味付がなされるようになりました。
それ故に「稲が実る」という意味としたのですが、8月の終わりに稲が実ると言うのは少し時期が早い気がします。
実際の事を言って、私の家の周りは相当早く刈り取りが始まるため既に稲刈りが行われていますから、8月下旬の実りは早くないのです。ですが、私が子供の頃の稲刈りは、今よりも1か月以上遅い9月下旬から10月上旬頃が普通でしたし、埼玉県内でも9月になってから刈り取りが始まるところも多いのです。
ですから、本来の日本の季節感としては、8月下旬では稲が実ると言うにはまだ早く、青々とした田んぼの方がイメージに合うというのが実態ではないでしょうか。もしかすると実ったのは稲よりもアワが正しいのかもしれませんね。
そういう事で今回は稲ではなく「アワ」について少し理解を深めて行こうと思います。
粟(アワ)について
食べ物が豊富な現代人にとって、アワは余り馴染みのない食べ物でしょう。しかし、日本においてのアワは、米よりも早く栽培されていた穀物だと言われていて、縄文時代から普通に食べられていた食料なのです。
生育期間が短く稲と比べ簡単に栽培することが出来るため、戦前までは良く作られていたのです。
皆さんは「アワ」を召し上がったことはありますか。
私は、食べたことがありませんと言いたかったのですが、調べてみると実は食べたことがあったのです。
私の家では、時々五穀米を炊いていたのですが、その中にアワが少し入っています。それともう一つ、猫じゃらし(エノコログサ)がアワと同じ仲間(属)の植物だと知って驚きました。我が家の猫が大好きな遊び道具の一つとして使っていたのに、全く知りませんでした。
もし皆さまがアワをお粥などで召し上がる機会がありましたなら、七十二候の禾乃登(こくものすなわちみのる)を思い出してください。そして縄文時代から続く日本の食文化を、しっかりと味わってみてください。
濡れ手で粟とは、 ぬれた手でアワをつかめば、アワ粒がごっそり手についてくるという意味で、つまり、苦労せず工夫一つで多大な利益を得ることが出来るという意味です。うまみのある商売・ぼろ儲けの比喩にも使われています。
考えようによっては、商売上手なアイデアマンという意味なのでしょうが、私はそんな器用な事は考えるより、粟を栽培した方が性分に合っています。しかし、この諺から分かる通り、昔は粟は貴重な食材だったのです。
濡れ手でつかんだ粟は、泡と化す・・・。