2020年の朝の勉強会で「四書・大學」を読んだが、難しかった。
それはどうやら朱子学(儒教)を学ぶ順番を、
間違えたことにもあったようだ。
孔子が儒教を唱えた約1400年後の宋時代に登場した朱熹が、
四書五経をはじめとする古い儒教の書籍の中から
大切な教えを選出して再編纂された新儒教が朱子学だ。
「新」といっても、約800年もの昔、平安時代の頃だ。
朱熹は儒教の学習を、まず最初に小学にて、
人としての基本的な躾を学ぶことから始めるように唱えた。
目上の人にはきちんと挨拶する、履物を揃える、
という人間としての基礎教育であり、
この基本が身についていない限り、
どんなに知識があろうと、
どんなに経済的に豊かになろうが、
人として尊敬されることはないとした。
人として尊敬されない限り、成功とはいえないため、
成功を目指す基本中の基本が「小学」教育である。
その次に学ぶのが、今回紹介する「近思録」である。
近思録は、朱子学(儒教)の入門書としての位置づけで、
その後、四書(大学・中庸・論語・孟子)
五経(易経・詩経・書経・礼記・春秋)と読み進める。
毎朝ZOOM勉強会で読んでいる言志録は、
江戸時代の儒学者、佐藤一斎の随想録。
昌平黌の儒官(総長)であった、
当時のナンバーワン儒学者も、
恐らくこの順序で儒教をマスターしたのだろう。
澁澤栄一翁も、学んだこの儒教教育の流れは
現在も多くの経営者に影響を与えている。
彼らが愛読している月刊誌「致知」、
「致知」という言葉は、大學の格物致知からの引用である。
朱子学・陽明学の考え方は、
中村天風、松下幸之助、稲盛和夫氏など
多くの経営者の考え方にも反映されている。
故に、一流経営者の経営哲学を理解するには、
これら東洋哲理の入門編に位置付けられている
近思録の存在は非常に大きい。
今回は、この近思録からの一文を紹介してみたいと思う。
避嫌者、皆内不足也
近思録(朱熹)嫌を避ける者は、皆内足らざるなり
解釈
原文はたったこの8文字
避嫌者、皆内不足也
様々な解釈を自由に行えるのが古典の面白さだ。
解釈 その①
人は、自信がないことに対して、
好き嫌いの問題に転化してしまい、
「嫌だから…」「苦手だから…」と、
自らを納得させて回避しようとする。
回避し続ける限り、
いつまで立っても、物足りない仕事しかできない。
解釈 その②
人は無意識に、自分の良いところだけを見せようとする。
つまり、自分にとって都合の良い状況を作り出すことを目的に、
日々頑張っているのだ。
しかし世の中は常に流動しているため、
当然の事ながら、
苦手な状況、都合の悪い状況も勃発する。
そのような状況に陥ると、
回避したいという意識が無意識に働き、
問題を先送り、的確な判断が下せなくなる。
すると、当然の事ながら、
折角それまで良い評価を得ていても、
世間の評価は落ちてしまい、
自信を喪失してしまうのだ。
自信を喪失すると、
益々その状況から脱することが出来ず、
悪循環を繰り返す。
これは何でも先送りする、
今のトップの判断を見ているとよくわかる。
自信を持つにはどうするか。
苦手意識を克服しない限り、
いつまで立っても自信が持てない。
自信とは何だろうか。
カウンセリングを行っていると、
「自分に自信が持てない」という相談を多く受ける。
一生懸命 地道に、今まで頑張ってきた。
しかし、苦手な事に遭遇すると、
自然とその仕事を後回しにしてしまう。
躊躇してしまい、判断が出来ずにいると、
まわりから期待されていた結果、
自らも想定していた結果に繋がらない。
すると、
それまで頑張っていた「自信」のバロメーターが低下して、
自信喪失に陥るようだ。
今までこんなに頑張っていたのに、
何故上手くいかなかったのか。
逆に苦手意識が克服できると、
自信が強まる。
自信とは得意な事を評価されるより、
苦手なものに立ち向かい、
思わぬ評価を得た時に発生するものであるらしい。
苦手な事を回避して、
出来ることばかり行っていると、どうなるか。
人は増長してしまう。
増長した自信は虚の自信、
空威張りのようなもの。
空威張りが許される環境に、
居座り続けられればよいのだが、
それが許されない場面に遭遇すると、
その状況から逃避するか、
甘えが許される環境に居座り続けようと、
引きこもってしまう。
会社に行きたくない、学校に行きたくない、
これらすべて、内なる自分に自信がないため、
嫌な事を避けようとする心理状態だ。
産業カウンセラーは、
自信を持たせることが大切なので、
得意な事をやらせ、
小さな成功体験を褒め続けることで、
自信を持たせるようにと指導する。
「褒めて育てる」指導法だ。
しかし、いつまで褒め続ければ良いのだろうか。
長い時間をかけて、
優しい感情でサポートできる平和な社会だと、
周囲が暖かく見守ればよいのだが、
今のような時代では、これが中々難しい。
動乱期の教育法
平和安定期であれば、
「決められた得意な仕事」「慣れた仕事」
だけをしていることが許された。
しかし、現在のような時代の変革期、
事業買収や合併などで生き残りをかけねばならなくなると、
苦手な分野を取りこむ必要もあり、
嫌だ不得意だと言っていられなくなる。
国が提唱している事業再構築制度でも、
従来の仕事を違う分野へ発展させること、
違う分野や不案内な業界の取り組みが求められている。
例えば、私は文系なので、
プログラマーのような理系の専門家に説明することが不得手であり、
私もイライラするが相手はもっとイライラする。
IT事業者の多くが、私のようなクライアントに相当てこずっていると思う。
自分にその能力が不足しているから、上手く伝えられない。
嫌な事なので、回避したいのだが、
避けたままでいると、アナログ人間で終わってしまう。
IT事業者も、デジタルだけだとコンテンツが不足する。
それでは、私のような文系人間がプログラミングを勉強し、
理系人材が文学・芸術を学べばよいではないかという事になり、
それを教育に生かそうというのが、
アメリカなど海外で注目されているSTEAM教育だ。
STEAM教育と仙人
STEAMとは、 Science(科学)、 Technology(技術)、 Arts(リベラル・アーツ)、Engineering(工学)、Mathematics(数学)を統合的に学習する教育だ。
数学的、科学的な基礎力を育成すると同時に、人文科学や芸術を含めたリベラルアーツを学び、技術や工学を応用した創造的なアプローチで、現実社会に存在する問題に取り組むことが出来る人材教育であり、文部科学省も推奨している。
IT技術の発展により、総合力を持った能力の創出が急務とされているため、この教育を施された新人類に未来社会を牽引させる狙いだ。
しかし、暦学的見地から考察すると、
人間の能力は本来片寄っていてそこに良さがある。
STEAM教育は中国古典からみると、
仙人教育であり、昔から行われている。
しかし人間力・精神力が余程強くない限り大成せず、
変人で終わってしまうため、同時に体力・精神力の強化を行った。
つまり、仙人のように山岳地帯に住むだけの体力・気力が必要とされた。
日本でいうと修験道であり、一般庶民とは異なる空間で、知力能力体力をバランスよく高めながら育成していた。
そのようなスーパーマルチ能力を所有した人間が、営利目的に育成されると世の中のバランスを乱すとした。
そのため、世捨て人のような世間とは隔離してしまう人間を創りあげた。
その結果、独りの仙人を作りだすよりは、個人の偏った能力を融合させることで、目的を達成させる人材活用術、チームビルディングを重視し、集合した偏った能力をどのように組み合わせたら効果が得られるかということに注視し、人間解析学として暦学が発展してきた。
偏った能力を有する人材を、
上手に和することで変革期に強い体質を作りあげる。
それには、
内の足らざることを自覚すること、させること。
内の足らざることを自覚出来る人間力を有した人物は、
他を尊重でき、敬意をもって接することが出来るのだ。
格物致知
大學の冒頭は、格物致知という言葉で始まる。
様々な解釈があるが、極限までシンプルにして言うと、
「物事の道理を極め、知識を最大限に広げていくこと」である。
自分の道を極めていくことで、
始めて自分に足りないものがわかる。
自分の知らないこと、苦手なこと、
嫌いな事を克服している人物を尊敬し、
素直に教えを乞う事で、
自らの知識を最大限に広げることができるのだ。
つまり、苦労して自分の道を究めた者のみが、
他の世界を尊重でき、
それにより自らの知を広げていくことが出来る。
避嫌者、皆内不足也
今回紹介したこのたった八文字は、
大學の主軸である、三綱領の真の意味の理解へと繋がる。
大學 三綱領
「明徳を明らかにするに在り」
「民に親しむに在り」
「至善に止するに在り」
この三綱領を理解できたのではないだろうか。
山脇史端
一般社団法人数理暦学協会
こちらのサイトに記事の抜粋を投稿させて戴いております。