《干支暦推命法》は、今から約3500年前の殷帝国の時代に、陰陽五行説に原理に融合して育まれた、命運を推察する学問です。天体の動きと地の動きを連動させ、統計学として確立させたこの知識は、当然の事ながら権力者の秘儀とされ、永い間、歴代王朝に伝わる知識として、その真髄が世に出ることはありませんでした。
干支暦推命法は、卜占や筮竹、手相などの相占とは一線を画した学問で、個々の人間を命運を干支暦という数字に置き換える事により、分析する人文科学です。
この学問から、算命学・四柱推命学・九星気学は誕生し、これらはいずれも日本独自の呼称です。四柱推命は江戸時代中期、九星気学は大正時代後期、算命学は戦後に入ってから、明代末期に三命通會を著わした萬民英、清代末の徐樂吾の著作を原典として編纂された学問であり、これらの名称は、中国古書に見つけることは出来ません。中国古書には、子平法・三命法・命学・命理と記されており、これらはいずれも干支暦を基に分析された統計学として伝えられてきています。
人の性質と命運を干支暦で分析するため、古代中国春秋戦国時代より帝王学として一部の権力者のみが知る事が出来る学問とされてきました。その為、隠語や暗号で記され、非常に難解な文章で構成されているのです。
中国王朝の滅亡、共産党国家の樹立・文化大革命による知識人の亡命により、戦後に入り、その学問の真髄が民間に伝えられるようになりました。その原典の体系は、約3500年前の中国殷帝国にて成立した陰陽学を祖とされていること、その後、周易の理論が組み込まれ、約二千三百年前の戦国時代に揚子江流域の楚の国の鬼谷子という人物により高度な分析法に発展したと、前漢の時代の歴史学者、司馬遷によって著された歴史書『史記』に記載されています。
鬼谷子の本名は王翻(おうく)。鬼谷という所に在住していた哲学者だった為、《鬼谷子》と呼ばれていたようです。
春秋戦国時代、軍略家(縦横家)として名を馳せた蘇秦、張儀の師匠であったことから、軍師達の師匠と語り継がれた人物であり、自然観察を人間分析に結びつけたとされていますが、蘇秦に伝授した技法とは、諸侯をどのようにして人物を解析して説得するか、人物分析技術を使いこなした実践的なプレゼンテーション技法でした。相手の性格を読んで、どのような言い方で伝えるか、その総括した技法こそが鬼谷子の秘儀とされていたのです。以降、この技法は後の王朝を支える軍師達の秘伝として《一子相伝》継承により、清王朝へと2000年もの時間をかけて、受け継がれていきました。
数理暦学について
戦後、清王朝の崩壊、共産党が政権樹立、その後の文化大革命を通して、中国大陸から多くの学者や哲学者が台湾・シンガポール・香港 そして日本へと亡命していきました。永い間王朝の軍略技法として、紫禁城から持ち出されることなどなかった、干支推命学の奥義が世界に伝承されたのは、わずか70数年前の出来事です。
昭和50年代に入ると、我が国でも《天中殺》がブームになるなど、一連の中国占星術ブームが巻き起こりました。当協会の指導者でもある清水南穂氏は、戦後、長崎に亡命してきた学僧より、推命学の奥義を学んだ故高尾義政文学博士に、永年に学ばれました。
高尾博士は、この中国推命学を算命学と名付けます。元々算命とは、三命法を語源としており、又、台湾では算命とは、命運を算術する技法という意味で、推命学全体の総称を意味しています。故に、故高尾義政文学博士が編纂された、干支暦推命学は、日本人独自の視点で編纂された始めての推命学であり、「日本算命学」という名称が正しいと思います。
1990年6月2日に故高尾義政文学博士が48歳で急逝されたことにより、博士の研究された《干支推命学》は、研究半ばで終わり、特に数理法・干合法・大運法・時空間理論は、IT技術が発達していなかった当時、計算が難儀であり、研究が着手されていませんでした。
当協会は、清水南穂氏直接指導を戴きながら、この部分に焦点を当て、古書を徹底研究、IT技術の専門家と共に、干支推命法のアルゴリズムを確立し研究を重ねています。
ITアルゴリズムを活用することで、算命学では解明されていなかった分野を解析し、干支推命法理論を安定させることで、占いではなくビジネスメソッドとして発展させることを目指しています。
新しい時代の干支推命法の編纂者、それこそが一般社団法人数理暦学協会の役割と考えております。