訳文
易にはこう書かれている。
「思い悩みながら行き来しても、
本当に理解してくれるのは志を同じくする友だけである。」
これについて孔子は言った。
天下の営みを考えてみよ。
そこに何を思い悩む必要があるだろうか。
何をあれこれと計算する必要があるだろうか。
人々はそれぞれ違う道を歩んでいるように見えるが、
結局は同じところへ帰っていく。
考え方は百通りあっても、
最後に行き着く理は一つである。
だから天下の営みに、
それほど思い悩み計略をめぐらす必要があるだろうか。
太陽が沈めば月が昇り、
月が沈めば太陽が昇る。
このように日と月は互いに入れ替わりながら、世界に光を生み出している。
寒さが去れば暑さが来て、暑さが去れば寒さが来る。
寒さと暑さが交互に入れ替わることで、一年という時間が完成する。
去っていくものは縮み、来るものは伸びる。
この縮みと伸びが互いに働き合うことで、
万物の働きや利益が生まれるのである。
尺取虫が体を縮めるのは、次に大きく伸びるためである。
龍や蛇が冬の間に地中にこもるのは、命を保つためである。
物事の道理を深く研究し、その奥深い原理にまで到達すれば、それは現実の働きの中で大きく役立つ。
そしてその働きが自然に身につけば、人の徳はさらに高められる。
しかしその先の境地については、人の知恵では知り尽くすことはできない。
変化の奥にある神妙な働きを理解し、万物の変化の仕組みを知ることこそ、徳の最も充実した姿なのである。
また、易にこうある。
「岩の間に閉じ込められ、とげのある草につかまり、自分の家に帰っても妻に会えない。それこそ、凶である。」
孔子は言った。
困る必要のないことで困るなら、その人の名は必ず辱めを受ける。
頼るべきでないものに頼れば、その身は必ず危険にさらされる。
辱めと危険が重なれば、やがて命を落とすことにもなる。
そのような状況で、妻に会えるはずがあるだろうか。
易にこうある。
「公が高い城壁の上にいる隼を弓で射て、それを射止める。何をしても利がある。」
孔子は言った。
隼は鳥であり、弓矢は道具であり、射る者は人である。
君子はその道具を身に備え、時が来るのを待って動く。
そうすれば、どうして成功しないことがあるだろうか。
時が来て動けば、必ず成果を得る。
これは、準備が整ったときに行動することを示している。
また、孔子は言った。
小人は、不仁を恥じない。不義を恐れない。
利益が見えなければ善を行わず、罰を受けなければ改めない。
しかし小さな罰を受けることで、大きな過ちを避けることができる。
これは小人にとっての幸いである。
易に
「足かせをはめられて足の指を傷つけるが、それ以上の罪にはならない。」
とあるのは、この意味である。
善を積み重ねなければ、立派な名声には至らない。
悪を積み重ねなければ、身を滅ぼすほどにはならない。
しかし小人は、小さな善は役に立たないと思って行わず、小さな悪は害がないと思って改めない。
こうして悪が積み重なり、ついには隠しきれなくなる。
罪が大きくなれば、もはや償うこともできない。
易には、「首かせをはめられ耳を傷つけられる。凶。」とあるのは、この意味である。
孔子は言った。
危険を忘れない者こそ、その地位を安全に保つことができる。
滅亡を忘れない者こそ、その存在を守ることができる。
乱れる可能性を忘れない者こそ、秩序を維持できる。
だから君子は、安定していても危険を忘れず、存続していても滅亡を忘れず、平和でも乱れを忘れない。
そうすることで、自分の身も国家も守ることができる。
易にある、
「滅びるかもしれない、滅びるかもしれないと思い続けることで、桑の木に結びつけたように国家は安定する。」
とあるのはこの意味である。
孔子は言った。
徳が薄いのに高い地位にあり、知恵が小さいのに大きな計画を立て、力が弱いのに重い責任を負えば、ほとんどの場合失敗する。
易に「鼎の足が折れて、君主の食物をこぼしてしまう。恥を受けて凶。」
とあるのは、その任務に耐えられないことを言っている。
孔子は言った。
物事の兆しを知る者は、神のような知恵を持つと言えるだろう。
君子は上の人に対して媚びず、下の人に対してもなれなれしくならない。
それは兆しを知っているからである。
兆しとは、物事が動き始めるごく小さなきっかけであり、吉凶の最初の現れである。
君子はそれを見て、一日も待たずに行動する。
易に「石のように確かで、一日を終える前に行動する。正しければ吉。」
とある。
君子は、微かな兆しを知り、明らかな結果も知り、柔らかさと強さの両方を理解する。
だから万人の手本となるのである。
孔子は言った。
顔回は、ほとんど理想に近い人物だった。
もし少しでも悪いことをすると、すぐにそれに気づいた。
そして一度気づいたことは、二度と繰り返さなかった。
易に「遠くに行かないうちに戻れば、悔いはなく、大いに吉。」とあるのは、この意味である。
天地の気が交わると、万物は化し育つ。
男女の精が交わると、万物は生まれる。
易に「三人で歩けば一人を減らし、一人で歩けば友を得る。」とある。
これは、すべての働きが最終的に一つへまとまることを言っている。
孔子は言った。
君子はまず自分の身を安定させてから人を動かす。心を落ち着けてから言葉を発する。人との関係を整えてから求める。
この三つを修めているからこそ、君子は完全なのである。
自分が不安なまま人を動かそうとすれば、人々は従わない。
恐れながら語れば、人々は応じない。
関係を築かないまま求めれば、人々は助けない。
誰も助けてくれなければ、やがて害する者が現れる。
易に「誰も助けず、ある者は攻撃する。心に一定の原則がないので凶。」
とあるのは、この意味である。
君子は、上に対して媚びず、下に対して驕らない
何故それができるのか?
―易経に知るされている「幾(き)」の知恵
この言葉は、「立派な人はこうあるべきだ」という倫理の話ではありません。
なぜ君子はそのように振る舞うことができるのでしょうか。
その理由を、今回の繋辞伝の章では、次の一言で説明しています。
「幾(き)を知るからである。」
幾とは何か
繋辞伝には次の言葉があります。
「幾とは、動きの微なり。吉の先見なり。」
つまり幾とは、物事が動き始めるときの、ごく小さな兆しです。
まだ結果は出ていない。まだ誰も気づいていない。
しかし、すでに変化は始まっている。その最初の瞬間を「幾」と呼びます。
世界は突然変わらない
大きな変化は、突然起こるように見えます。
会社が突然倒産した。
国家が突然混乱した。
人間関係が突然壊れた。
しかし本当は違います。
その前に必ず、
・小さな違和感
・小さな不信
・小さな歪み
が現れています。
それが「幾」です。
多くの人は、結果が出てから気づきます。しかし君子は、その前に気づきます。
だから媚びる必要がない
上に媚びる人は、何を恐れているのでしょうか。
多くの場合、それは目の前の権力です。
しかし、幾を知る人は違います。
彼らは知っています。権力もまた、変化の流れの中にあることを。
勢いのあるものは、やがて衰えます。衰えているものは、やがて変わります。
つまり、権力そのものもまた流れの途中にある存在なのです。
だから、必要以上に媚びる理由がありません。
だから驕ることもない
逆に、下に対して驕る人は、自分の立場が永遠に続くと思っています。
しかし易の世界では、どんな状態も必ず変化します。
高いものは低くなり、満ちたものは欠ける。
これは自然の法則です。
その流れを知っている人は、自分の立場を誇ることもしません。
幾を見る人の姿勢
繋辞伝はこう言います。「君子は幾を見て作る。終日を俟たず。」
君子は兆しを見たら、すぐに行動します。
大きな変化を待つ必要はありません。兆しの段階で動くからです。
そのため、
権力に振り回されることもなく、立場に慢心することもない。
君子とは、変化を見る人
君子とは、道徳的に立派な人というより、変化の兆しを読む人です。
世界は常に動いています。その流れを観察し、その兆しを感じ取り、適切なときに動く。
だから、上に媚びる必要もなく、下に驕る理由もないし、逆に言えばそんな余計な時間もありません。
変化の兆し(幾)を読むノウハウ
――易経が教える「縮みと伸び」の観察法
世界は突然変わるように見えます。
会社が急に傾いた。
社会が急に不安定になった。
人間関係が急に壊れた。
しかし本当にそうでしょうか。
今回の章には、こう書いてあります。
幾とは、動きの微である。
幾(き)とは、変化が始まるときの、ごく小さな兆しのことです。
まだ結果は出ていない。まだ誰も気づいていない。
しかし、すでに流れは動き始めているのです。。
その最初の瞬間を、易経は「幾」と呼びました。
では、その兆しはどうやって読むのでしょうか。
世界は「縮む」と「伸びる」で動いている
繋辞伝には次の言葉があります。
去るものは縮み、
来るものは伸びる。
縮みと伸びが互いに作用し合うことで、
万物の働きが生まれる。
屈は「縮むこと」、信は「伸びること」を意味します。
つまり世界は、
縮む動きと伸びる動きの交代
によって動いています。
兆しは交代の瞬間に現れる
例えば自然を見てみましょう。
太陽が沈むと、月が昇ります。月が沈むと、太陽が昇ります。
寒さが去れば、暑さが来ます。暑さが去れば、寒さが来ます。
昼と夜、冬と夏。
世界は、一方が退き、もう一方が現れるというリズムで動いています。
この 交代の瞬間こそが、変化の兆しです。
縮みは衰退ではない
私たちはつい、成長・拡大・前進だけを良いものだと考えがちです。
しかし易経は違います。
縮むこともまた、自然の大切な働きだと考えます。
繋辞伝はこう書いてあります。
尺取虫が体を縮めるのは、次に大きく伸びるためである。
尺取虫は体を縮めてから、前へと伸びます。
つまり、縮むことが次の前進を生むのです。
兆しは「縮み始める瞬間」にある
変化の兆しは、大きな事件ではありません。
むしろ、
・少し勢いが弱くなる
・少し空気が変わる
・少し違和感が生まれる
そんな小さな変化です。
勢いよく伸びていたものが、わずかに縮み始める。
その瞬間が、幾(き)です。
易経が教える観察法
易経の観察法はとてもシンプルです。
世界の流れを見て、「いま伸びているもの」「いま縮み始めているもの」を見極めること。
つまり、伸びと縮みのリズムを読むことです。
変化を恐れない
縮みは終わりではありません。
それは多くの場合、次の変化の準備です。
冬があるから春が来る。夜があるから朝が来る。
世界は、縮み → 伸び → 縮み → 伸びというリズムで動いています。
易経は変化の兆しを読むための書です。
世界を観察してみましょう。
いま何が拡大しているのでしょうか。
いま何が縮み始めているでしょうか。
その小さな動きを見つけること。
そこに、幾を読む知恵、君主(リーダー)の知恵があるのです。