経営陣とは、経営者と管理者と監督者の3者から構成されており、それぞれに経営学がある。
佐藤一斎著、重職心得箇条で学ぶ重職とは、管理職を示しており、経営者(トップ)と監督者との間を繋ぐことが役割だ。
経営者は方針の決定者である。時代を捉えながら行き先を決める、船でいえば船長だ。
その方針を状況を把握しながら、いかに実行していくか、または、実行するか否かを判断する役割が管理者(重職)である。
そして、管理者の下に監督者がいる。
監督者は、管理者の判断に従い、その命令を忠実に従い、実行することが役割である。
この3者がしっかりと役割分担を行うことで、組織は始めて起動する。
しかし小さな組織の場合、経営者が管理者の役割を兼務することが多い。
その場合は、本人が、ここは経営者としての役割だ、ここからは、管理者だと意識をすることが大切である。
つまり、本人の中で、しっかりと役割の違いを認識することが大切になる。
重職心得箇条が書かれた時代は、組織も複雑化されていなかったが、あくまでも「心得」という理想論であり、これをすべて網羅するのではなく、何か問題が生じた場合、バイブルのように用いることが大切だと、亀山先生は説明された。
心得とは、そもそも、まずしっかりと理解すること、理解した上で、常に心がけていく「心構え」なのである。
この心構えがあるかどうかで、問題が生じた時に、やるべきことを瞬時に判断できるのではないか。
経営者と管理者と監督者 それぞれの役割
会社は、この3者によって成立しており、経営者(リーダー)には帝王学という理論が別にある。
重職心得箇条は、管理職バイブルなため、経営者が用いるものではなく、経営者には別に帝王学という理論がある。
これはあくまでも、管理者の心得と捉えるべきであり、何でも一緒にしてはいけないのだ。
経営者が管理者も兼務する場合、この役割の違いを意識して行うことが大切だ。
経営者の仕事は、方向性を示すことが役割であるため、ある程度 理想論者の方が良い。
管理者は示された方向に基づいて、それを実行するための運営状況を考えることが役割であり、船で言えば、行き先を決めるのが経営者で、実際の航路図を描く役割を担うのが管理者だ。
監督者は、その判断を忠実に実行する実行者である。
そして、その下にその業務を担う実行部隊が、それぞれの能力を携えながら待機しているという図式だ。
管理者(重職)に必要なことは、現場とトップの中間に位置するため、両者の性格や求めていることの理解であるが、社員それぞれの能力や性格の把握は、監督者の仕事になる。
実際には、管理者が監督者を兼務する場合もあるだろう。
しかし、役割が違うということを、本人の意識が完全に切り替わらない限り、混乱をきたす。
多くの場合、管理職は、管理職と監督職を混合し、判断が下せなくなる。
今の判断は、管理者としてなのか。それとも監督者としてなのか。
東洋哲理コンサルタントの役割は、まずその明確化とそれにおけるコンピテンシーモデルの構築を経営陣に対して行うことから始める。
暦学の活用法
こう考えてみると、暦学の技術は、一体誰にとって必要なのだろうか。
シンプルに言うと、現場を動かす監督者にこそ必要な智術である。
監督者は、従業員一人一人の個性と能力と性格を把握した上で、上から指示される業務を遂行させることが仕事だ。
しかし、この暦学メソッドは、歴史的には帝王学として伝承されてきた。
何故かというと、少ないデータで論理的に相手を把握できる人心掌握術など、下の者に教えたくない特殊技術だ。
支配者層の知識にとどめておきたいという、単純な理由からだと思う。
下手すると、下の者が上の者を把握してしまう。
監督者の役割は、社員を監督することが役割だ。
船で言うと機関士であり、航路や目的地には関与せず、船を運行することだけに従事する。
つまり、如何に部下の能力を上手に活用しながら、船を目的地にたどりつけるか、それを実行に移すのが監督者だ。
監督者による現場情報を捉えながら総括的に判断し、いかに実行するかを考えるのが管理者(重職)であり、そういう意味では管理者(重職)は経営者(リーダー)の夢を実行する大切な役割なのだと思う。
現場は必死に現場を廻すため、全体的な判断が出来ないし、監督者も社員の中のトップなので、プライドもある。
彼らの判断を理解する柔軟性と、彼らが拒否することの推測、そして部下に文句を言わせない威厳が、管理者(重職)には必要になる。
その威厳に必要になるのが、伝統と因習の使い分けであり、これをごっちゃにすると、伝統は育たず因習に縛られた会社になる。
管理職が暦学を用いるとしたら、何に仕えるか。
上の者を暦学ではみてはいけないというのが鉄則なので、自分の部下である監督者の人物解析と掌握術に活用できる。
それでは、経営者であるオーナーは暦学をどのように用いるか。
経営者が一人一人の社員の性格を把握するという細かい事にこだわると、組織は硬直化する。
勿論中小オーナー企業の場合、社員は家族なので、One to One、一人ずつと向かい合い、彼らの心を把握することが大切だろう。
その場合、オーナーの意識は管理者の意識まで下げる必要がある。
しかし、社員からみたら、社長(経営者)が仮面をつける訳でもないので、社長本人の意識は監督者であっても、社員からみたら経営者だ。
そのため、お互いの意思疎通が粗略になり、気まずい時間が続く。
そのソリューションとしては、まず経営者が明言してみてはどうだろうか。
「今日は、社長だと思わず、君の仕事の監督者として接したい。」と。
経営者が、管理者の目線で捉えることが出来るなら、暦学は管理者メソッドとしての有効活用できるだろう。
しかし、部下からみたら、幾らそうは言っても、経営者は経営者であり、監督者ではない。
いくら一緒に居酒屋に飲みにいっても、それは違う。
逆に、社長を監督者だと思い込んでしまうと、逆に縦型社会は崩壊する。
現場は誰が司令塔なのか、会社全体の司令塔は誰なのか不明瞭になり、迷いが生じるだろう。
そのため、小規模な組織の場合は、経営者の家族でも良いから、やはり経営者・管理者・監督者の枠組みが必要であり、それで始めて強固組織になると思う。
暦学を、経営者が用いる場合は、管理者(重職)を把握するのに使って欲しい。
末端の社員が所有している情報量と、管理者が所有している情報量は雲泥の差があり、組織の場合、管理者の人心をいかに掌握すべきかは、リーダーの存亡にかかわる問題だからだ。
特に現在のようにリモート化が進んでくると、相手の心を掴むために直接会う時間が限られてくると、彼らと相互に理解しあえる共通言語が必要である。
日本人は 上に立つ者が反省するという傾向がある。
古事記の中で天照大神の岩戸隠れの話があるが、これは、責任者がこもって逃げたのではなくて、反省するために身を隠したという意味だそうだ。
日本人は下の者に、とやかく言う前に、上の者が反省する。
昔物語でも、子供が自分の身を売ってまで親の酒代を出すという話を、中国では親孝行の美談としているが、
日本ではそんな事をさせる親がいけないという。
暦学は、古代中国発祥の学問故に、「自分の身を売ってまで親の酒代を出した子供」は、自己犠牲の精神を土台に人生が構築されるため、どんな苦労をも乗り越える根性が身に付き、また自分より他人を思いやる利他の精神が土台であるゆえに、ひとのこころを惹きつける大成者になると捉える。
「上に立つ者が反省する」というのはある意味美談だが、それでは下が育たないのではないのか。
道徳という考え方が健在だった時代は、上の者が反省しても、下の者は上の者の意を汲み、理解が出来て、尊敬の念を持つため、そこに相互に信頼する社会構造があったが、現在のような道徳教育のない時代では、信頼を構築するのが難しいのが実態である。
佐藤一斎が生まれたのは、明治維新の約100年前。
重職心得箇条が書かれた時代は、上に立つ人も下に立つ人も儒学教育を受けていたため、共通する基本ベースがあった。
故に、上のものが反省する事で、下の者の反省も促せた。
どんな時代でも、信頼できる人間関係がない限り物事は成立しない。
明治維新から150年、時代の変革期の今こそ、こころの教育の必要性を感じている。