二十四節気 季節で感じる運命学、今回は「白露」です。
白露(はくろ)は、二十四節気の第15番目になります。太陽黄経は165度となり、今年は9月8日から9月22日までの期間となります。
暦便覧では、「陰気やうやく(ようやく)重なりて、露にごりて白色となれば也」と言っています。
ひと頃に比べると、朝夕は、心地よい風が吹いてしっかりと秋の気配を感じることができます。
そのため、晴れた日の朝方に、放射冷却で気温が低下し、大気中の水蒸気が露となって草の葉先につく姿が「白露」です。
この白露の期間には、重陽(ちょうよう)の節句があります。
節句については、「季節で感じる運命学の《小暑》」 にも書かせていただいておりますので、もう一度お読みいただけると少し理解が深まるのではないかと思います。
重陽の節句
陰陽五行説では、奇数は縁起が良いとされているのですが、奇数の月の奇数日は陰と陰で陽となってしまい、逆に縁起が悪くなってしまうのです。
例えば、3という数字は天地人三歳の数字であり、昔から、安定数、解りやすく言えば、縁起の良い数字です。
しかし、3+3=6 になり、偶数になります。
奇数は縁起が良い、偶数が縁起が悪いと、昔から言われてきたので、その解釈で言うと、縁起が良いことが重なると、縁起が悪くなるという理解になります。
つまり、良い事が重なると、メチャ良いかというと、そうではなく、悪い結果になることがある、その理由は、《ひとの心の慢心》、つまり気の緩みや思い上がりなので、自らを戒める為には、神の下座に座し、清廉な気持ちになることが大切だと説いたのです。
このことから奇数の重なる日は、神様に季節の供物をお供えすることで邪気を払おうとしました。
邪気とは、自らの心の状態です。
白露における節句は、9月9日で重陽(ちょうよう)・菊の節句として祝います。
9は一桁の数のうち一番大きな陰の数字になるのでそれが重なる9月9日は、縁起の悪さも大きくなると考えらました。
しかし時代を経ると、良く解釈しようという考えも生まれ、陽の重なりは必ずしも悪いことではなく、吉になるという考え方になり、お祝いをするようになったようです。
9月9日も「くんち(九日)」と言われ、重陽の節句に合わせたお祭りが行われたりします。
長崎や唐津の「おくんち」は、既に大きなお祭りになっていてとても有名ですね(諸説あり)。
重陽も過ぎたころには、空の雲も入道雲から箒で掃いたような絹雲に代わり、荻やススキのような大きな草も十分に茎を伸ばして、人の背を優に超えるようになります。この頃になると日暮れの早さが、本当に実感されるようになります。文字通り「秋の日は釣瓶落とし」です。
五行の季節と色
ところで、なぜ「白露」なのでしょうか。朝日に輝く葉先の露を白と表現したからだと私は思うのですが、どうでしょう。しかし、ここにもう一つの考え方があります。
私たちが講座の中で学ぶ五行説では、季節を色で表していると教えています。
下の表で示したように、秋は「白」となっているのです。
五行 | 色 | 季節 | 方角 | 四神 |
木 | 青 | 春 | 東 | 青龍 |
火 | 朱 | 夏 | 南 | 朱雀 |
土 | 黄 | 土用 | ||
金 | 白 | 秋 | 西 | 白虎 |
水 | 黒 | 冬 | 北 | 玄武 |
そして季節と色は人生の各年代を表してもいるのです。
人生の春を表している色は青であり、それ故「青春」と言います。
この言葉は、歌や映画、文学の題材として取り上げられているので、五行説を知らない人でも良く使う言葉になっています。
これは五行説の影響だけでなく、青という文字
そのものに未熟・若いといった意味があることも関係しているのでしょう。
面白いことに青春だけではなく、四季すべてに「青春」と同様の言葉があるのです。
夏は朱(赤)で表されていて、朱夏(しゅか)といいます。
秋は先ほど来申し上げている白であり、白秋(はくしゅう)となるのです。詩人北原白秋の名も、これにちなんで付けられたと言われていますが、事実は雑誌「蓬文」刊行の際にくじ引きで「白秋」に決まったという事だそうです。(笑)
最後に冬ですが、冬は黒(玄)で表すのです。言葉としては、玄冬(げんとう)となります。
五木寛之氏が平成28年に著しました「玄冬の門」という本があります。同氏には「青春の門」というベストセラーがあるのですが、これに対する人生の晩年をこの本で説いています。
中には、人生を五行説による「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」の四つのステージに分け、それぞれのステージを最良に生きるため為すべきことが書かれているのです。白秋・玄冬に差し掛かった皆さまも、一度お手に取りお読みになって見てはいかがでしょうか。
秋は夕暮れ
さて、五行説による季節・色の関係は分かり頂けたと思いますが、私の個人的な感覚としては、枕草子に書かれた季節の色やイメージの方がなんとなくしっくりと来るのです。
清少納言は、枕草子の中で「秋は夕暮れ。夕日の差して山の端いと近うなりたるに、・・(途中略)・・まいて雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、・・・・。 」と書き綴っています。
現代語に訳せば、「秋は夕暮れが良い。夕日がさして山の端に大変近くなっているところに・・・ まして、雁などの連なって飛んでいるのが、非常に小さく見えるのは・・・ 」と言う事になるのです。
つまり「秋は夕暮れがいい」言っているのです。確かに、秋の夕暮れは真っ赤に染まった夕焼けが、なぜか物悲しくも美しいのです。
そして冬についても、次のように書いているのです。「冬はつとめて。雪の降りたるは、言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、・・・・。」
現代語に訳しますと「冬は早朝が良い。雪が降っている朝は言うまでもなく、霜が大変白い朝も ・・・・」という事になります。
このように日本の気候を背景に考えますと、紅葉もありますので秋は赤で、冬は雪や霜の色から見て白の方がイメージしやすい気もするのですが、五行説は中国で考えられたものなので日本の感覚とは多少違うのかもしれません。
七十二候では
白露の初候は、略本暦では草露白(くさのつゆ しろし)で、宣明暦では鴻雁来(こうがん きたる)となっています。
次候は、略本歴では鶺鴒鳴(せきれい なく)で、宣明歴では玄鳥帰(げんちょう かえる)です。
末候は、次項の宣明暦にあった玄鳥帰(つばめ かえる)と良く似ている玄鳥去(つばめ さる)がであり、宣明暦は羣鳥養羞(ぐんちょう しゅうを やしなう)となっています。
初候・次項・末候のそれぞれに「鳥」が扱われているのが気になるところです。
詳細については、個々の候の中でお伝えしていきたいと思います。
初候
白露の初候、略本歴では草露白(くさのつゆしろし)となっています。これは二十四節気の節気名とほぼ同じです。初めにも書きましたが、放射冷却で冷えた空気中の水蒸気が草先について、朝露が光白く見えると言う事だと思います。ただ二十四節気の場合は白露(はくろ)と読んで(しらつゆ)とは読みません。
俳句にする場合には、「白露」を(しらつゆ)と読む場合がとても多くて、「はくろ」と読むのは二十四節気の読み方に限られているようです。
初項の宣明暦は、鴻雁来(こうがん きたる)で雁が飛来し始める頃だと教えています。
この鴻雁来(こうがん きたる)は、二十四節気の「寒露」の初候でも全く同じものが略本暦に出てまいります。
日本と中国では、1カ月程度のずれがあると言う事を意味しているのでしょうか。
さて、ここに出て来る雁(「がん」または「かり」)は、カモ目カモ科の水鳥の総称です。
白鳥よりは小さいのですが、カモ類としてはかなり大きな鳥です。例えば日本に飛来するマガンは、アラスカやシベリア東部で繁殖し冬越しのために日本にやってくるのですが、翼を広げると150㎝前後もある大きな鳥なのです。長距離移動の時、編隊を組んで飛ぶことが知られていますが、これは気流の流れを上手に使って先頭以外の鳥が省エネで飛ぶことができるようにしているのです。きれいな編隊飛行を見ていると、不思議な感銘を受けて思わず見とれてしまいますね。次候の略本暦は、鶺鴒鳴(せきれい なく)となっています。
意味としては、セキレイが鳴き始めると言う事なのですが、我が家の庭先にはセキレイが、一年中飛んできては鳴いているのでどういう意味だろうかと頭を悩ませます。
縄張り意識の強い鳥なので、そうした習性を指しているのでしょうか。縄張り争いや雌を呼ぶために鳴くことを、専門的には「さえずり」と言い、繁殖期以外やさえずり以外の場合の鳴き声を「地鳴き」と言うのだそうですが、「鶺鴒鳴(せきれい なく)」は、こうした習性から考えますと「さえずり」のケースだろうと想像します。
我が家の庭で毎日鳴いているのはハクセキレイという種類なのですが、実はこの鳥1930年代まで本州にはほとんどいなかったと言われていますので、略本暦が書かれたころの江戸にはいなかったのではないかと想像できるのです。更にセキレイは、水辺の鳥としても知られているので、大都市だった江戸ではどうだったのかと思うのです。
しかし良く考えてみますと、江戸は現代の東京とは違い多くの水路が街に張り巡らされていたことも有名なので、むしろそこここで普通に見られたのかもしれないと思ったりもするのです。皆さまは、どんな想像をされるでしょうか。
次候
次候の宣明暦では、玄鳥帰(げんちょう かえる)つまりはツバメが南方へ帰って行くと言っています。
ご承知の様にツバメは、春に南方から日本に渡り子育てをして、寒くなる秋には再び南方に帰っていく渡り鳥です。ですから、秋になるこの時期は、ツバメが南方に帰るという言葉を用いています。
玄鳥とは、ツバメの別名なのですが、竹取物語の中では、「ツバクラメ」として出てきます。これはツバメのことを、「土食い(つちくらう)」からツバクラメと呼ぶようになったとか、様々な 説があるようですよ。ちなみに、プロ野球のヤクルトスワローズのマスコット「ツバ九郎」もツバクロをもじったものだそうです。
末候
最後に末候の略本暦では、玄鳥去(げんちょう さる)となっており、燕が南へ帰って行くと表現しています。
ツバメが「帰って」も、「去って」も意味は同じなのですが、「帰る」というのは元居た場所に帰るということを言っていて、「去る」というのは今ここからいなくなると言う事を表現しているので、行き先の事までは言っていません。
生態調査が進んでいる現代では、ツバメが元の場所を行ったり来たりしている渡り鳥だと誰しもが知っていますが、中国人は昔からそれを知っていたと言う事の証なのかもしれません。
一方日本では、ツバメを作物の守り神として扱ったり、常世の国(海の彼方にある異世界)から来た「使い」と信じていたので、この世から「去る」としたのかもしれません。
末候の宣明暦では、羣鳥養羞(ぐんちょう しゅうを やしなう)となっており、「多くの鳥が食べ物を蓄える」の意だとと言っています。
羣鳥(ぐんちょう)とは群鳥のことであり数多くの鳥のことです。また羞(しゅう)とは、食べ物のことです。
これからの寒い冬に向かって、鳥たちが餌を食べて蓄えると言う事を意味しているのですが、気温の低下に従い、鳥も食欲は増えて行くのだそうです。
そのため、単に冬に向かって餌を多く食べて、寒さ対策のために太ると言う事ではないようです。この時期に羽が生え代わる種も少なくなく、そのために多くの栄養補給が必要となってきます。
私が子供の頃には、秋も深まり稲穂が実ると、米はスズメたちの格好の餌になっていました。
稲の刈り取りが終わる頃には、それを捕らえる「スズメ取りのおじさん」もやって来て、たくさんのスズメが捕まえられていました。
秋のスズメは、太っていると、まことしやかに聞かされたこともありましたが、さすがに食べたことはありません。
今でこそスズメを捕るなんて事は出来なくなりましたが、江戸時代には大切な米を食べてしまう悪い鳥として捕まえられて、食べられていたのです。現在のスズメは、人に捕まってしまう恐れはなくなりましたが、餌場そのものも減ってしまい個体数が大幅に減っています。
そう言えば、都会でスズメを見る機会も減りました。
もはや「スズメのが学校」が賑やかなのは、まだ田舎の風景の拡がる、我が家の屋根の上だけなのかも知れません。