《幸せ体質作り》推進委員!仙台の誉田先生からの投稿です。
マクロビオティック(マクロビ)はご存知でしょうか?
最近はローソンにもマクロビコーナーがあったり、お洒落なマクロビレストランがあったりと、私達の生活に浸透している言葉になっているのかもしれません。
YOGA ZEN MICROBIOTICS この3つには共通項目があります。
歴史ある東洋発信の文化が、アメリカ西海岸を経由して戻ってくると、何故かとてもお洒落な文化に変貌を遂げるのです。
そうすると、地味だった東洋文化がスタイリッシュな文化となり、様々な世代に拡がっていきます。
その下地には、日本に古来からある文化だったというファクターはとても大切なのです。受け入れやすい素地が作られていたということは大切な要素になります。
さてそんな文化の流れを、仙台支部長、誉田先生にご講義戴けたらと思います。
《幸せ体質作り、推進委員長 誉田和子》
私は28年間YOGAを指導させて戴いております。
YOGAを指導させて戴いていて嬉しいことは、身体を柔らかくすることで、こころも柔らかくなり、柔軟で前向きな考え方を持って戴けることです。
頑固な考え方で前に進めなかった方も、身体を柔らかくすると、表情が柔らかくなり動き出します。
YOGAにより、陰陽のバランスを整えると、力みがなくなり心と身体が柔らかくなるのです。
この協会の学問は、陰陽学です。
陰陽学というと難しいように感じるかもしれませんが、マクロビオティックというと、身近な言葉だと思います。
マクロビオティック(マクロビ)は、陰陽学に基づいて作られた食事療法です。
今回から何回かに分けて、マクロビ-ヨガ-干支暦学の流れについてご説明出来ればと思います。
マクロビオティックとの出会い
私の仕事は何かと聞かれたら、《幸せ体質指導員》と答えるかもしれません。《幸せ体質》とは、陰陽のバランスを整えることで作りあげる体質です。
干支暦学のセミナー会場でもある東北福祉大学で開催されている小泉淳作画伯の、東大寺本坊襖絵展に行った時、画伯が美について記述していた言葉が非常に印象的でした。
美とは、「奇麗なものだけではなく、醜いものも含めてのもの」
これこそまさに東洋の思想《陰陽学》だと感じました。
30代の頃、私はこの東洋の思想《陰陽学》による食事療法、「マクロビオティック」に出会いました。
大阪から仙台に転勤してきて、ヨガ教室に通い始めていた時、ヨガをご指導下さいました先生が、アメリカでヨガとマクロビを学んできた方でした。
食べ物に陰陽があるという教えと、しかも先生がそれをアメリカで学ばれたという事に対し、大学で東洋哲学を学んだ私にはかなり衝撃的でした。
マクロビオティックとは
マクロは「大きい」「長い」を意味するギリシャ語でビオは「生命」をあらわして、ティック「学」
デジタル大辞泉には、「玄米、野菜、海藻などを中心に摂取する食事法」と書かれています。
「マクロビオティックとは長寿法を説くものであり、人と生き物の環境のバランスを保ちながら健康の根源を支える・・」(日本CI協会ホームページより)方法です。
マクロビオティック(マクロビ)という言葉は、女性雑誌などで眼にしたことも多いかと思います。
本来のマクロビは、単なる食事法ではなく、陰陽五行からみたものの見方や考え方です。
この考え方に出会い、それまで適当に食事をしていた私は、ある時期ストイックにこの食事法を行いました。その私の経験も織り交ぜて、マクロビを通して陰陽学を説明出来ればと思います。
さてこのマクロビ、マドンナやトムクルーズが愛用したことで一気に世界に広まったことから、カルフォルニアあたりのセレブでお洒落な金髪美女が始めたのでは・・・と思っている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
実はマクロビは、LAの金髪美女ではなく、超情熱的な明治の男が第2次世界大戦前にガチに作り上げた気骨ある文化なのです。
マクロビオティックという言葉自体、彼が名づけ親です。お洒落!
今回は、そんな男、桜沢 如一氏を紹介したいと思います。彼の生き方を通して、マクロビの本当の素晴らしさが伝わるのではないかと思うのです。
桜沢 如一 (1893年10月10日~1966年4月24日)
マクロビオティックの提唱者で、海外ではジョージ・オーサワの名で知られています。ゆきかずと読み、若い時はじょいちと呼ばれていたそうです。
1893年(明治26年)に京都市で生まれました。如一は元々身体が弱く、赤ん坊のころから病弱で何度も死にかけたそうです。名家の出身ながら山奥暮らしを嫌った父は京都に出て警官になったが浪費癖が強く、如一が6歳の時に家を飛び出してしまいます。
母は10歳の時に肺病で亡くなり、その後他人の家に預けられて丁稚奉公のような生活をしながら勉学にいそしみます。
苦労を重ね商業高校に在学中の19歳の時、亡くなった母と同じように肺結核になり、血を吐き、医者にすすめられた治療費など貧しい如一には到底工面できず、死の瀬戸際にあった如一が、何とか自力で治す方法がないものかと図書館で探している時に出会ったのが、陸軍の薬剤官 石塚左玄が創設した食養論です。
この本との出会いが、如一の人生を多く変えます。そう、これこそが、マクロビオティックが誕生した瞬間です。
ワラをもすがる思いで本に書かれている通りの事を、実践すべく、和歌山の新宮で療養する事になります。
食養論とは玄米を中心とした粗食です。玄米ご飯とごま塩、味噌汁など一日一食の粗食を10日間ほど続けただけで吐血はおさまり、身体が軽くなり、日に日に健康が回復していくのを感じたそうです。
それまで如一は、母が死んだ原因も自分が病気になったのも、すべて貧乏からくる栄養失調だとばかり思っていました。
母は、子供の頃から身体の弱い如一の為に、当時流行の西洋の栄養学を信じて栄養のあるものをということで、毎朝洋食を食べさせていたのです。
如一は、あまり栄養がないような粗食でなぜ健康になったのか不思議に思い、この命を救ってくれた食養論に傾倒していきます。
それでは石塚左玄の唱えた食養論とはどのようなものなのか見てみましょう。《桜沢如一 100年の夢(アートヴィレッジ社出版)を参照しながら綴って参ります。
石塚左玄の食養論
陸軍の薬剤官である左玄の立ち上げた食養論は、マクロビオティックの基礎理論となった考え方で、玄米を基本とした食事療法です。
明治維新以降、西洋のハイカラ嗜好が強まり、肉や乳製品を食べないと強い身体が作れないという風潮が強くなったのに対し、人間の食物は玄米を主体とした穀物であり、野菜や肉食に偏ることなく、その土地のその季節に出来るものをバランスよく食べることだと唱えました。
この理論には、一物全体・身土不二があります。
刺身のような部分だけや、皮をむいてしまったり、白米、精白小麦粉、白砂糖のように部分や精製されたものを食べれば、多病で脆弱な人間になる、魚だったら全体を、米も白米ではなく全体を食べよ。(一物全体)
自分が住む土地で育った食物を基本とすること。(身土不二(しんどふに)。
身土不二とは仏教用語で、「因果応報」という言葉であり、その土地が人の身体を作り上げる、地元の食品が身体には一番良いとした考えです。
今の健康雑誌に書かれている内容とほぼ同じ事だというのが分かるかと思います。この考え方は、実は如一が生まれた頃には既に誕生していました。
明治政府は文明開化を急ぐあまり、医師の資格を免許制度にして、それまで日本が伝統的に取りいれてきた漢方医学はとりいれず、西洋医学のみを国家の医学として、医療を国の管理下におきました。ドイツに留学をして西洋医学を学んだ森鴎外が唱えた欧米式の栄養学こそが、当時の医学の主流だったのです。
左玄の唱えた食養論は禁欲主義的で、賛同者も多くありません。今と同じく健康志向の一部の人のものだったようです。
健康回復をした如一は高校を卒業後、食養会に加入し、食養論を実践するかたわら、神戸フランス語学校にてフランス語を学びます。その縁もあり、遠洋航路の仕事につき1年間海外を廻ります。様々な経験を通して如一は語学力と貿易の実務を学ぶのです。その後貿易を会社を興すなど実業家としても活躍しました。
フランスへ
1929年(昭和4年)、如一はそれまでの全ての事業に終止符を打ち、石塚左玄の食養会の監事に就任しました。陸軍の薬剤官である左玄の立ち上げた食養会には、華族をはじめ政治家や軍の上層部などそうそうたる会員が名を連ねており、そうした人々との人脈も出来、会の監事としての手腕は高く評価されていましたが、しょせん井の中の蛙ではないかという思いが頭の隅から拭いされなかった・・・と、自叙伝には書かれております。
この戦前の時代は、大正末期に北大路魯山人が作った美食倶楽部「星岡茶寮」が大人気で、美食や西洋の栄養学が隆盛を極めていた時代です。故に、この粗食をモットーとした食養会は健康クラブ的な集まりに過ぎず、如一は、この左玄の食養理論を哲学的に高めなければ世界性・普遍性がないと考えたのです。
そして易経や陰陽理論を学び、仏教書などを読み漁るうちに、閃いたのだそうです。
「食べ物とは生きとし生きるもの。宇宙の理論もすべて陰陽で成り立っている。左玄先生の食事療法も陰陽原理で説明できるのではないか。」
如一は、無双理論《陰陽原理の食養理論》と名付けたこの理論を、非常に革命的な発見と思いましたが、中々日本では注目を浴びません。
そこで、1929年37歳の時に家族を捨て、シベリヤからフランスへ無銭武者修行に出る事にしたのです。
時代は世界大恐慌の真っ只中、「10歳にもならない長男が、それから数年間大塚駅で新聞売り子をした」と、他人事のように自叙伝には書いていますから、文字通り、家族を捨てて路頭に迷わせたようです・・・。
ソルボンヌ大学にて
パリで乞食のような生活をしている内に、パリ郊外でバンコク学生夏期講習キャンプが開かれるというので、ボランティアの炊事係りを申し出ました。フランス人からみたら、アジア人の料理人的な感覚だったのでしょう。
そんなある日、独りの女子学生が身体の不調を訴え、石塚左玄が発見した「ショウガ湿布」をつくり治してあげると、その噂がすぐに広まり、身体の不調の相談に来る者が相次いだのです。キャンプの参加者は裕福な家の学生が多かったので、その噂は父兄にも伝わり、食事療法と一緒に茶道や華道も披露したことから、東洋文化の伝達者ということで、注目を浴びるようになります。
次回、彼の性格解析も行いますが、人々を自然に惹きつける独特の魅力の持主だったようで、人から人の恩恵で運をつかんでいきます。
ソルボンヌ大学で食養の講演を依頼され、それを機にソルボンヌ大学やパスツール研究所で化学や宗教心理、インド思想などの講義を受けるなど、様々な知識を吸収することで、その集大成として、渡仏して3年目に「東洋の哲学および科学の無双原理」を書き上げます。この本は5年後に「無双原理・易」として日本語でも出版されたのです。
3年間でフランス語で専門書を書くなど、明治の男の気骨ははんぱありません。
フランスでの滞在期間は6年間、その後帰国しますが、帰国時に超小型飛行機の専売特許を得、その権利を日本飛行機会社に販売したことから、ひと財産作ります。
如一は、食養会のためにこの資産を投じて、食養を実践できる病院を建設し、食養会の発展のため、経営を担います。
しかし、学歴も医師免許もないフランス帰りの如一が、病院経営をするには多くの反発があり、4年後、私財を投入して貢献した食養会から追放されてしまいます。
そしてちょうどその頃、日本は戦火に飲みこまれていきます。第二次世界大戦の始まります。
あまり長くなると、ブログは読みづらいと言われているので、この続きは今度また。今回はここで終わりましょう。
運命学視点からみますと、すべて陰を陽に変換しながら歩んだ如一の気骨ある生き方が、現在の文化を作りあげたのではないでしょうか。
病気で貧乏でなければ、左玄の本に出会う事はなかったでしょう。
無双論がすぐに認めていたら、フランスには行かなかったかもしれません。
食養会に追放されていなければ、独立していたかどうかも分かりません。
如何でしたか?マクロビの意外な創始者の物語。
マクロビは日本に古来からあり明治維新で忘れ去られてしまった食事療法を、《世界に広めないと広まらない!》という考え方で必死に広めた如一の挑戦から始まった文化です。
私達も明治維新で忘れ去られてしまった干支暦学を、現在広める活動を行っています。
確かに、世界に広めないと広まらない!
当協会は素晴らしいメンバーで構成されています。情熱とチーム力で挑戦していきたいと思っております。ご支援宜しくお願致します!