私達を取り巻く世界は常に変化している… 世界とは何か? ミクロの世界は個人の生活、マクロの世界は大自然、宇宙である。
それでは、「宇宙」の定義とは何なのか? 紀元前3世紀に著された中国の古典「淮南子」には下記のように記されている。
宇とは、自分の四方上下、前後、左右。 つまり自分が置かれた環境・空間全体の事を意味し、宙とは、「往古来今」過去と未来、時間を意味する言葉。
つまり宇宙とは、時空間の事。
時空間とは何だろう? 私達は、「時間」という海の中を、一生懸命、溺れないように必死に泳いでいる・・・。
「時間」という海の中で誕生し、そして泡となって消えていくのが人生だ。人魚姫のように。
潮の流れの中で、同じ場所に居続けることなど不可能だ。
昨日の自分と今日の自分は必ず違う場所にいる。
しかし、その違いを意識することはないだろう。
いつまでも「同じ自分」だと敢えて錯覚しようとしているから…。
《老》や《死》を意識したくない人間の深層心理、《変化を恐れる気持ち》を持つのは人間の性なのだ。
海の中で一生懸命泳いでいる自分とは、一体どういう存在なのか。
まず、自分の顔は、他人からどのように見えるか?
鏡に映る顔は、左右逆、他人が見ている顔と、いつも鏡で見る顔は逆である。
それでは、写真はどうだろう?
写真はピクセルの集合体、平面なので限界がある。つまり、自分が認識している《自分の顔》と素顔は別物で、実は自分の顔を自分自身で見る事は不可能なのだ。
どうにかして、自分を把握する方法はないのだろうか。
古代中国の賢人達は、動かない自分という存在を活用した。
動かない自分とは、誕生した瞬間のみ、その一瞬の時間こそ、自分の素顔である。
数理暦学では《実相理論》でそれを説く。
次に動いている姿を描写した。
子供の頃は素の自分で良かったが、成長するに従い様々なしがらみを感じるだろう。
しがらみで育まれた自分、数理暦学では《表相理論》でそれを説く。
さて、この人物を、《時間》という海に泳がせてみよう。 古代中国は海とは程遠い中原で誕生したので、彼らにとって《海》とは大河の事だ。
揚子江・黄河の河の流域を想像してみよう。
水流はどうなのか、泳いでいる人間の体力はどうなのか、その先に曲折はあるか、匈奴の襲来はないだろうか?
人間は、時間によって変化する。
この水の流れを把握すること事が、帝王学。
大河の氾濫により農耕がおこなわれ、そこでの余剰収穫が蓄積された事により都市国家が成立した。
豊かさをもたらした河川の氾濫は、同時に人々の生活を破壊した。
王たる者の大切な役割は治水である。氾濫に周期性がある事から、時期を推測する方法として暦法や天文学の発展した。
大河の氾濫に周期性があるのと同じく、運命の流れにも周期性があるのだ。
運命は予め決められているものなのか? 変えることは出来るのか?
その流れを上手に掴み、航海するには、自分という船の性能を熟知し、気象や海上の様子を把握、目的地を明確に定め、航路をシュミレーションする事が大切だ。
それにより、遭難する確率も減るし、目的地に到着する確率も高くなる。
干支暦とは、このように、古代の賢人達が天体の動きや四季の変化などが我々にどのような影響を与えているのか、それを掴もうとした究極の学問だ。
時間の変化が人物にどう影響を及ぼしているのか、それを緻密に観察した理論体系こそが、干支暦推命法である。
我々はこの知識を活用し、伝承することこそが次世代へのミッションと考えている。
そして、もう一つ数理暦学を学ぶ事で知って貰いたい事がある。
明治維新以降、我が国は東アジア思考を捨て西洋的な価値観に重きを置くようになった。欧米列強と肩を並ぶべく富国強兵、軍国主義を急いだ結果の戦争、敗戦。
戦後はアメリカ資本主義への傾倒したが、70年余りを過ぎた今、世界全体が大きく次の時代に入ろうと躍動している。
次の時代の覇者となるのは、アメリカ対中国、恐らくユダヤ資本対華僑資本の戦いだろう。
中国の考え方を理解し、学ぶ事はこれからのビジネスに大変有意義な知識ではないだろうか。
春節を祝わないのは東アジア諸国では日本だけであり、東アジアに位置しながら、思想学的には我が国は大変孤立している。
東アジア経済圏を牽引する華僑ビジネスを理解するのに必要な知識こそ、干支推命学であり、その知識を次世代の日本人に伝える事こそ当協会の役割と捉えている。
彼らがどのような論理思考で物事を捉え、判断するのか。
キリスト教思考の欧米は《YesかNo、良いか悪いかという》一元的思考であるが、東アジアでは二元的、五元的、十次元的思考である。
こらからの人達に、数理暦学を提案したい。学ぶ事でビジネスが有意義に推進されていくことを確約する。