八卦列(つら)なり成りて、象その中に在り。
これに因りてこれを重ね、爻その中に在り。
剛柔(ごうじゅう)相推して、変その中に在り。
辞を繫けてこれに命(なづ)け、動その中に在り。
吉凶・悔吝(かいりん)なる者は、動より生ずる者なり。
剛柔なる者は、本(もと)を立つる者なり。
変通なる者は、時に趣く者なり。
吉凶なる者は、貞(てい)にして勝る者なり。
天地の道は、貞をもって観る者なり。
日月の道は、貞をもって明らかなる者なり。
天下の動は、貞なる一(いつ)に夫く者なり。
それ乾は、確然として人に易きを示すなり。
それ坤は、隤然(たいぜん)として人に簡を示すなり。
爻なる者は、これに效(なら)う者なり。
象なる者は、これに像(かたど)る者なり。
爻象内に動きて、吉凶 外に見(あら)われ、
功業変に見(あら)われ、
聖人の情 辞に見(あら)わる。
天地の大徳を生と曰(い)う。
聖人の大宝を位と曰う。
何をもって位を守るかと曰えば仁なり。
何をもって人を聚(あつ)むるかと曰えば財なり。
財を理め辞を正し、民の非を為すを禁ずるを義と曰う。
訳文
八卦が一定の秩序をもって並び立つことによって、
万物の象(イメージ)を感じることができるのです。
そして、それを上下に重ねて六十四卦とすることで、
爻(変化の段階)を把握することができるのです。
変化とは、剛と柔とが互いに押し合い、
働き合うことによって生じます。
つまり、保守的な考え方と、先進的な考え方が
押し合い、働き合わないと、
変化は生まれません。
さらに易経では、
そこに簡易な言葉(辞)を結びつけることで、
動きの意味を明らかにしているのです。
吉・凶・悔・吝という結果は、すべて動きから生じています。
剛と柔とは、物事の根本を打ち立てる原理であり、
変通とは、時の流れに応じて向かうあり方でなのです。
吉と凶とは、
正しさ(貞)を守り通した結果として勝ち取られるものです。
天地の道は、この「貞」をもって観察され、
日月の道は、この「貞」によって明らかとなります。
そう、天下万物のあらゆる動きは、
一つの正しさき道へと帰着しているのです。
乾は、確固としていて、
人に易(明快さ)を示します。
坤は、従順で包み込むようにして、
人に簡(無理のしない素直さ)を示しています。
爻とは、
これらの働きに倣って現れる変化の段階であり、
象とは、これらの性質をかたどって示した姿です。
爻と象が内において動くことによって、
吉凶は外に現れ、
功績や事業の成否は変化の中に現れ、
聖人の内なる思いは、言葉(辞)として現れるのです。
天地の最も大きな徳は、
何かを「生(生み出すこと)」
聖人のやるべき、最も大きな事は、
「位(立場・秩序)」を整えるのとです。
では、その位を守るものは何かといえば、
仁です。
人々を集めるものは何かといえば、
財です。
そのため、財を正しく管理し、
言動を正しくし、
民がよこしまな行いをすることを禁ずる―
これを義といいます。
つまり、義とは、
財と権限を動かしながらも、
私に流れず、公に保つための実践的な正しさです。
仁義礼智信の考察
―― 儒教倫理と『易経』思想における構造的差異 ――
要旨
一般に「仁義礼智信」は、儒教倫理における人格徳の体系として理解されてきました。
この一般的理解が主として『論語』『孟子』を中心とする道徳・人格修養の文脈に基づくものであることを再確認した上で、『易経』における仁義礼智信の位置づけが、この考え方と本質的に異なっていることを考察します。
『易経』において徳は人格目標ではなく、変化する現実の中で秩序を維持するための機能的原理として扱われています。
今回の繋辞典でも、仁義礼智信は「徳目」ではなく「運用構造」として定義されています。
この差異を明確にすることで、易経思想の理解を深めたいと思います。
1. なぜ「仁義礼智信」を再検討するのか
「仁義礼智信」は東洋思想において、儒教倫理を代表する徳として広く知られています。しかし、易経、繋辞伝においては、この五徳の理解が当てはまりません。
なぜなら、『易経』は他の儒教経典と異なり、「人はいかにあるべきか」という倫理的理想よりも、「世界はいかに動き、変化し、その中で秩序はいかに保たれるか」という構造的関心を中心に据える書物だからです。
① 一般に理解される仁義礼智信
② 「易経」とくに『繋辞伝』における徳の語られ方
③ 両者の決定的差異
① 一般的な「仁義礼智信」の成立背景
現在、一般に語られる仁義礼智信の理解は、主として以下の儒教経典に基づいています。
-
論語・孟子・大学・中庸
徳目としての仁義礼智信
これらの文献において、仁義礼智信は以下のように理解されています。
-
仁:人を思いやる心、人間性の根本
-
義:利害を超えた正しさ
-
礼:社会秩序を保つ規範・作法
-
智:善悪是非を見極める知恵
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信:言行一致、誠実さ
仁義礼智信は「備えるべき人格的性質のリスト」「善き人間像」を示した倫理大系です。
②『易経』における思想的立場
易経の基本関心
これに対し、易経 繋辞伝に示されている五徳は、倫理規範ではありません。
易経が一貫して扱うのは、
-
動(動き)
-
変(変化)
-
貞(軸・正しさへの一貫性)
という、生成と秩序のプロセスです。
易経には、「仁義礼智信」という五徳を体系的に列挙する記述は存在しません。また易経は、徳を「人が身につけるべき性質」としても扱っていません。
易経では徳を、世界と人間の動きの中で機能する原理として扱っています。
これから易経を読み進めるのにおいて、この違いをしっかりと認識する必要があると思います。
『繋辞伝』における徳の機能的定義
仁 ― 位を支える内的制御原理
『繋辞伝』は次のように述べています。
何をもって位を守るかと曰えば、仁なり
ここでの仁は、感情的な思いやりではありません。
権限・地位・影響力を持ったときに、それを私物化しないための内的原理です。
すなわち、仁とは「力を持つ者の内側に必要な制御装置」として捉えています。
義 ― 歪みを是正する運用原理
『繋辞伝』は、義を次のように定義しています。
財を理め、辞を正し、民の非を禁ずるを義と曰う
ここでの義は、正義というような、抽象的なものではありません。
財(資源)、辞(言葉・制度)、行為(民の行動)を現実に統制する力です。
現代的に言えば、ガバナンスそのものかもしれません。
礼・智・信の位置づけ
『繋辞伝』では、礼・智・信は独立した徳目としては捉えていません。
-
礼:秩序を可視化する構造
-
智:動と変を読み取る判断能力
-
信:言葉と行動、内と外が一致している状態(貞)
易経において信は、「守るべき徳」ではなく、
仁・義・礼・智が正しく機能した結果として現れる状態です。
両者の決定的差異
| 観点 | 儒教倫理 | 易経 |
|---|---|---|
| 中心関心 | 人格の完成 | 変化と秩序 |
| 徳の性格 | 人格徳 | 機能原理 |
| 仁 | 思いやり | 位を支える内的制御 |
| 義 | 正義・道徳 | 統制・是正 |
| 礼 | 礼儀作法 | 秩序の形式 |
| 智 | 賢さ | 変を読む判断 |
| 信 | 誠実さ | 一致した状態 |
論語・孟子が「人はいかにあるべきか」を問うのに対し、
易経は「動いたとき、変わったとき、秩序はいかに保たれるか」を問いています。
この違いを理解しないまま、仁義礼智信を易経に当てはめると、易経思想の本質は倫理説話へと矮小化されてしまう怖れがあります。
易経における仁義礼智(信)とは、
変化の世界において崩壊を防ぐための実践的原理であり、
徳目ではなく、構造です。
五経(『詩経』『書経』『礼記』『易経』『春秋』)はすでに漢代以来の正典です。
しかし、朱子は五経を編纂する際、『易経』を最上位に位置づけました。
なぜ朱子は
倫理的に分かりやすい『論語』『孟子』ではなく、
難解で象数的な 易経 を
思想体系の頂点に置いたのでしょうか?
他の書は、人間世界における倫理と実践をテーマとしていますが、
易経は「道徳以前の原理」をテーマとしています。
なぜ、仁が善なのか
なぜ、義は守られるべきなのか
この「なぜ」の答えは、
論語にも孟子にも書かれていません
易経は、善悪を
「人がどう感じるか」
「社会でどう評価されるか」という視点では説明していません。
易経の問いは一貫しています。
それは、世界が生成し、持続する方向に働くか否か
この観点から見ると、
善=生を助けるもの
悪=生を損なうもの
となります。
これは倫理ではなく、存在論的基準です。
易経において、
天地の最高原理は「生(生み出し、育て、継続させること)」です。
ここで重要なのは、
生は感情ではない
生は意志でもない
という点です。
生とは、
陰陽が対立しつつも、互いを滅ぼさず、生成へ向かう働きです。
易経での仁は、
「優しさ・思いやり」ではありません。
生を損なわず、関係を断絶させず、
立場や力を生成の方向に用いる内的原理なのです。
つまり、
仁がある → 関係が続く
仁が失われる → 関係が断絶し、秩序が崩壊する
という構造的帰結です。
仁が善なのは、仁が「生」を守り、拡張するからです。
これは道徳評価ではなく、
世界が存続するか否かという次元の話になります。
しかし、易経は、
生が自然に続くとは考えていません。
財が集まれば、私欲が生じ、
権力が生まれれば、偏りが生じ、
言葉が使われれば、虚偽が生じる。
つまり、生成は必ず歪みを伴います。
そのため、繋辞伝は、義を次のように定義しています。
財を理め、辞を正し、民の非を禁ずるを義と曰う
ここでの義は、「高尚な正義感・抽象的善悪判断」ではありません。
義とは、
生成の流れが破壊に転じないよう、
現実の歪みを是正する制御原理です。
易経の論理では、
仁だけでは、善意の暴走となり、生だけでは、無秩序な膨張となります。
義は、ここまでは許される・ここから先は止めるという、線を引く力です。
つまり、義が守られなければ、「生」そのものが崩壊するのです。
易経においては、
仁=生を開く原理
義=生を壊さないための制御
そのため、
仁がなければ、世界は枯渇し、義がなければ、世界は暴走します。
両者は倫理徳目ではなく、生成システムの理論に過ぎません。
しかし、これが自然世界の必然なのです。
仁は、天地の大徳である「生」が、人間の内面に現れた原理であり、
義は、その生が歪み、破壊へ転じることを防ぐための制御原理です。
ゆえに、
仁は、世界を存続させる方向に働くから善であり、
義は、その存続を壊さないために、必ず守られねばならない。
これは倫理的結論ではなく、
自然論的存な構造的必然なのです。