易に聖人の道、四つあり。
言(げん)をもってする者は、辞(ことば)を尚び、
動(どう)をもってする者は、変を尚び、
器を制する者は、象(かたち)を尚び、
卜筮(ぼくぜい)をもってする者は、占を尚ぶ。
君子、まさに為さんとし、
まさに行なわんとするときは、
これを問いて言をもってす。
その命(めい)を受くること響のごとく、
遠近幽深なること無し。
遂に来る物を知る。
天下の至精にあらざれば、
たれかよくこれに与(あずか)らんや。
参伍して変じ、数を錯綜し、
その変を通じて、遂に天下の文を成す。
その数を極めて、遂に天下の象を定む。
天下の至変にあらざれば、
たれかよくこれに与らんや。
易は思うこと無し、為すこと無し。
寂然として動かず、感ずれば、遂に天下の故に通ず。
天下の至神にあらざれば、
たれかよくこれに与らんや。
夫れ易は、聖人のもって極)めて深くし、
幾を研ぐ所以なり。
ただ深ければこそ、天下の志に通じる。
ただ幾(きわど)ければこそ、天下の務めを成す。
ただ神なればこそ、疾からずして速く、
行かずして至る。
子曰く、
「易に聖人の道四つあり」とは、これを謂うなり。
現代語訳
易経には、聖人が用いた4つの道(方法・知恵)がある。
-
言葉を重んじる人は、「辞」(=文章・言葉)を大切にし、
-
行動を重んじる人は、「変化」を重んじ、
-
道具や制度をつくる者は、「象」(=かたち・モデル)を大事にし、
-
占いをする者は、「卦の意味」を重視する。
賢者(=君子)が何かを始めようとする。
易経を学びし者(=君子)であれば、
どう動くべきかをまず最初に易に問い、
その答えを言葉として受け取ることが出来る。
日頃から易経を学んでいるため、
その言葉は、
彼の心に雷のように響き渡り、
深淵なる意味が即座に通じ、
明確に、未来に起こることが読み取れるのだ。
これほどまで「精妙な思考回路」が可能な者は、
深く学び続けたことで、
自分自身が精緻な存在になれた者だけである。
易は、「組み合わせ」や「交差(錯綜)」を通じて変化を生み出し、
そこからこの世界のすべての模様(=文化、知、象徴)をつくりだす。
その数理を極めることで、象(シンボル)が定まる。
また、易には意思も作為もない。
静かに黙して動か存在だが、
その言葉に感応できる者を、
即座に真理へと繋げていく。
このように神秘的なものに関われるのは、
この叡智を学び続けた者、
最高に神性を帯びた存在になれた者だけである。
だからこそ、易は、
聖人が「深く掘り下げ」「かすかな前兆を見抜く」ために用いた方法なのだ。
-
深さがあるからこそ、あらゆる人の志に通じ、
-
微細な兆しを捉える力があるからこそ、天下の仕事を成し、
-
神のような性質があるからこそ、急がずして早く、行かずして到達できる。
孔子の言う「易には聖人の道が四つある」とは、まさにこのことである。
あなたは何を最も優先させるリーダーか?
| 大切にするもの | 説明 | どんなタイプのリーダーか? |
|---|---|---|
| 言葉 | 文章・ことばの使い方に意味を見出す | 経営理念・ビジョン・メッセージ設計を得意とする |
| 変化 | 動きや流れを捉え、変化に対応する | リーダーシップを発揮し、迅速な意思決定を目指す・マーケ戦略を得意とする |
| スタイル | 現象や自然のかたちのモデル化 | デザイン・制度設計・ロジック思考を重視する |
| 感覚 | 決断を導く直感や流れを読む力 | 人間観・タイミング・リスク判断を重視する |
易経学習トレーニングの目的は、
上記4つ全てを得意にすることである。
「受命如響」──情報を超えて“通じる”もの
聖人は、易に問いを発し、そこからまるで音が反響するように答えを得た。
「受命(答え)を受けること、響きのごとし。遠近・幽深の差なく、来るべきことを知る。」
これは、データやロジックを超えた「共鳴感覚」の世界ではないか。
共鳴のポイントは、問いの質が高いこと。
質の高い問いが行えれば行えるほど、その答えは深層と直結する。
これって、現在のAIの活用にも通じていると思いませんか?
易経では、問いの力こそが、人間の知性の核であると述べています。
「参伍して変じ、錯綜して文を成す」──複雑性を編む思考
易経の真骨頂は、無限の組み合わせから意味ある構造を作ること。
「参伍(さんご)して変じ、錯綜(さくそう)して数を通じ、遂に天下の“文(もん)”を成す。」
ここで言う「文」とは、文章だけではなく、秩序・法則・システム。
つまり、カオスな情報を編み直して世界のしくみを作り出す力、
仕組み構築力だ。
情報過多の時代に登場したAI
AIは無限の組み合わせから文章を生成し、
その組み合わせ時代も無限…。
AIを使いこなすには、
仕組み構築力こそ大切ではないでしょうか。
「不疾而速、不行而至」──“神性”とは何か?
「速からずして速く、行かずして至る」
「思いもせず、為すこともなく、ただ感ずれば通ず」
この“神性”という表現は、非人間的な超越性ではなく、極度に研ぎ澄まされた人間的能力を指しています。
たとえば、トップリーダーが「何も言わずとも空気が動く」ような感応力。
または、アーティストが「自然と手が動き、作品ができていた」というような状態。
この域に至るには、
「深く掘ること」
「兆しを捉えること」
「構造を見出すこと」─
まさにこの章でいう、“三つの道”を極めた先にしかありません。
暦学の学びも同じです。
その奥義こそ、この3つの道…
干支暦の数理的構造をトコトン学び、
それをどう活用したか、3000年の歴史を深く掘り下げる
しかし、それだけでは、古典の研究で終わってしまいます。
現代において、どう活用すべきか、
「今起きていることの兆しを捉える」感性を鍛えること。
その方法こそ、理論と現実の検証です。
理論的にはこうだが、この人物は本当にそのように動くのか。
その事象が起きた原因は、なぜなのか。
それを、数理理論で解読していく・・・
この作業を永年続けることで、
変化の兆しを的確につかめる力が得るのではないでしょうか。
―「問い」によって、世界が応えてくる仕組み
『易経』が他の哲学書と大きく違うのが、
神秘的な「占(せん)=問い、占い」という存在が組み込まれていることです。
ここまで論理的なのに、
なぜ最後に筮竹か!
しかし、それは、私達の固定概念₌占いではありません。
巷で言う「未来を当てる占い」とは大きく違います。
大切なのは、問いかけ力。
誰に向かって??
自然に…宇宙に…世界に…社会に…
古に… 今に… そして未来へ…
禅と同じく、自分の欲望を全て取り去り、
超ニュートラルの心理状態にならない限り、
正しい答えは得られません。
そのための、お作法…
それが筮竹
占=問いかけによって掴む、世界の“気配”
「卜(ぼく)」「筮(ぜい)」とは、竹の棒を使った古代の占いの方法です。
道具が登場するため、
どうしてもショーアップしがちですが、
重要なのは、
「問いを立てることで、世界に“揺らぎ”が生まれ、そこから意味が立ち上がってくる」
という発想。
そもそも「占」とは、
“どちらを選ぶか”を判断するための、人間の最終的な意思決定ツールです。
- 情報が多い、少ないから迷う(情報が何もない₌一目惚れの場合は迷いません)
- なぜ迷うのか? → 自我欲(五欲)の中で迷ってしまう
- なぜ占うのか? → 迷いがあり、自分で決められないから
- 占うことで、欲が決められ、自分の中の“決意”が発現する
そこに、未来の兆しが浮かび上がる ※五欲(福禄寿官印)
禅との違いは、
禅は仏教であるがゆえに「欲を手放していく」方向を重視するのに対し、
易経はその後、道教にも取り込まれていく過程で、
むしろ五欲をどう選び、どう生かすかを示す技法としても読める、という点です。
「占」は主観と客観をつなぐ“回路”
古代中国では、人間と天地自然(宇宙)は一体であると考えられていました。
つまり、人が問いを立てると、それに応じて世界が響いてくる(感應)という感覚です。
これが『繋辞伝』にある有名な言葉:
「受命如響(じゅめいじょきょう)」—命を受けること、響きのごとし
※ 命とは、天の命(みこと)
この感覚は、こうも解釈できます:
- 「問い」を立てると、自分の無意識や環境のノイズから、意味あるサインが浮かび上がる
その“気づき”の構造こそが、「占」の本質です。
自力でそのノイズを消すことが出来れば、筮竹に頼ることはありません。
易経成立後、前漢朝期に仏教が伝来すると、この易経の考え方に仏教が影響し、禅の成立にも関係していきいます
易は“宇宙の変化の学”
禅は“心の変化の学”
両者は
「変化をそのまま受け入れ、自分を道と一体化させる」という視点は共通です。
禅は只管打坐を重視します。
易に頼らず、自力で欲を消去し、内外のノイズを全て消し去り、天から命を受ける…意味あるサインを得ようとする文化です。
易は時を読み、禅は時になる。
古代中国で成立した、
時との向き合い方を示す二つの古い智慧…
それが、易経と 禅。
どちらも“時”を扱いながら、アプローチは驚くほど異なります。
易は、時の流れを「読む」学問。
天候を読むように、兆しを読み、運気の背景となる“時の質”を洞察します。
それは、流れの速さや深さ、どこで渦が起こり、どこで風が止むのかを見極める行為に似ています。
今は動くべきか、待つべきか。
進むべき道は右か、左か。
振り返るべきか、そのまま押し進むべきか。
易は私たちに、川のリズムを感じ取る目を与えてくれます。
そこには「正解」はありません。
あるのは、その“時”にふさわしい動き方だけです。
一方、禅はまったく逆のことを教えます。
禅は、時の流れを分析せず、
潮の満ち引きを測りません。
未来の兆しを読み取ろうともしません。
禅がすることはただ一つ。
今この瞬間に、自分自身を置くこと。
時間の外に逃げるのでもなく、時間に流されるのでもなく、
ただ「今」に深く座り込む。
すると、不思議なことが起こるのです。
時が、自分の中に溶け込んでくるのです。
昨日の後悔や、明日の不安が消滅し、
“今という一点”だけが澄み切った湖のように広がります。
その瞬間、人は「流れに合わせる」のではなく、自らが時そのものになるのです。
易と禅。
どちらも“時”を扱いながら、アプローチは対照的ではないでしょうか。
易は、時の呼吸を読み取る。
禅は、時の呼吸そのものになる。
この違いは非常に深いものではないでしょうか。
人が迷うのは、未来が不確実だから。
人生の節目で立ち止まるのは、自分のタイミングが見えないから。
そんな時、易の視点は、
「この流れはどこへ向かうのか?」
「今は待つべきか、動くべきか?」
その判断軸をくれます。
禅の視点は、あなたを“今”に根付かせます。
「未来の心配も、過去の記憶も、今の私にはない。」
そのような、静かな境地に誘ってくれるのです。
禅は6世紀、中国で達磨によって始まります。
つまり、
禅は、「易的世界観が空気のように流れていた社会」で誕生した仏教。
そのため、禅の思想と修行は、その背景にある陰陽・象・時の哲学と自然に融合したスタイルになります。
そして、禅の発展がピークを迎えた宋代(11~13世紀)入ると、
易経・道教・禅・儒家がほぼ一体化した時代になります。
例えば、禅の動静観は、易の陰陽観の影響を濃く受けましたし、禅問答(公案)も、抽象的感覚・直観をQ&A象という「象」にしたものだと言われています。
時の呼吸を読み取り、
時の呼吸そのものになる…
これがこれからの必要な生き方かもしれません。