世界を動かす力とは何か?
私たちは、目に見える現象に囲まれて生きている。
「見える現象」に価値を見出し、その評価に一喜一憂しているのが、現実を生きる私達だ。
しかし、世界を動かしているのは、その背後にある目に見えない「何か」ではないか?
恐らく多くの人がそう感じているだろう。
その正体について、考察してみよう。
『繋辞上-第四章』には、「精気」と「遊魂」という二つの力への考察がある。
この考察を出発点に、カント、ヘーゲル、ニーチェといった西洋哲学との対話を通じて、西欧社会、東洋社会における、世界を動かす力の本質を探ることにする。
現在、世界を掻きまわしているアメリカの文化・思想的背景には、ドイツ哲学や心理学が深く影響している。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ドイツ・オーストリアで生まれた抽象的な哲学や心理学の理論を、実用主義のアメリカは、教育プログラムや経営理論といった実践的な形へと転換してきた。
たとえば、ユングやフロイトの提唱した深層心理学は、セラピーや自己啓発の手法として広まり、広告やマーケティング、ブランド戦略に応用されるなど、抽象理論を現実の課題解決に役立てることで発展してきた。
戦後80年、私たちの意識の根底には、このアメリカ主義が大いなる影響を与えてきた。
そのアメリカ的価値観が、今、限界を迎えている。
そのため、世界が混沌としているのだ。
脱西洋思想、東洋哲理への回帰、これこそが、これからの道ではないか。
易経における、世界を大きく変えるエネルギー その理解を深めることは、これからの時代の大いなる指針になると思う。
易與天地準。故能彌綸天地之道。仰以觀於天文。
俯以察於地理。
是故知幽明之故。原始反終。故知死生之説。
精氣爲物。遊魂爲變。是故知鬼神之情状。
易は天地と準(ひと)し。
故に能く天地の道を彌綸(びりん)す。
仰いで以て天文を観る。
俯して以て地理を察す。
是(ここ)を故て幽明の故(ゆえん)を知る。
始(はじめ)を原(たず)ね終りに反(かえ)る。
故に死生の説を知る。
精気物を為し、遊魂、変を為す。
是(ここ)を故(もっ)て鬼神の情状を知る。
易経は、天地の法則を記した書物である。
だからこそ、天地の道理を広く行き渡らせる力がある。
天を仰いで星の運行を観察し、
地を見下ろして、地形や自然の変化を見極める。
これこそが、目に見える世界と見えない世界の成り立ちを知ることができる基本である。
物事の始まりをたどり、終わりに至る流れを探ることで、
生と死の本当の意味が理解できる。
精気(目に見えるエネルギー)は物質を作りだし、
遊魂(目に見えないエネルギー)は変化を生み出す。
鬼神(目に見えない霊的存在)の働きを知るには、
精気と遊魂を知ることであり、
天地を知ることであるのだ。
1. 変化を生み出すエネルギー
精気(せいき):形あるものの源・五行
- 「精」= 本質・濃縮された存在
- 「気」= エネルギー・生命の動き
- つまり、精気とは可視の世界を構成する凝縮されたエネルギー
- 『黄帝内経』:「精者,生之根也」
遊魂(ゆうこん):変化の源・陰陽
- 「遊」= 漂い、自由に動く
- 「魂」= 不定形の精神・霊的エネルギー
- 遊魂とは、形を持たず常に変化し続ける不可視の力『易経』繋辞下伝:「遊魂為変」 遊魂が変化を成す(変化現象の根底には、目に見えない遊魂の動きがある)。
『荘子』:「形骸外遊,心神内游」形ある身体の外を漂い、心神は内側で遊ぶ。
『礼記』:「魂魄別行」魂は遊ぶように動き、魄(肉体に近い霊的要素)は体内に留まる。
両者の関係
- 精気が物を成し、遊魂がそれを変化させる
- 精気は「形」、遊魂は「動き」
- 精気は外側、遊魂は内側
易経では、卦の内側で陰爻と陽爻が入れ替わる「潜在的な変化」(遊魂の動き)がまず起こり、それが一定の形になったときに“現象化”すると考えた。たとえば春の息吹は、土中で静かに芽を押し上げる力が先に働き(目に見えない段階)、地上に若芽が顔を出すことで初めて誰もが「芽が出た」と認識します。
潜在→顕在
陰陽の転化(見えないレベル)…遊魂
精気と遊魂が組み合わされ、象(かたち)として顕在化(見えるレベル)する。
「つまり、「変化は目に見える前から始まっているが、多くの人は“象”(現象化)して初めてその変化に気づく」
易経を学ぶ意義:遊魂の流れを把握することで、次にどう変化するか事前に知ることが出来る事にある。
2.カントとの対比──現象と物自体
項目 | 易経の視点 | カントの視点 |
---|---|---|
可視の世界 | 精気 = 凝縮されたエネルギー | 現象(Phänomen)= 認識される世界 |
非可視の根底 | 遊魂 = 見えない変化の力 | 物自体(Noumenon)= 認識できないが存在するもの |
共通点 | 遊魂≒物自体(直接認識できないが、現象を成り立たせる根拠) |
易経では、「精気」を自然そのものの実在感あるエネルギーと捉えた。星という精気(物体)は、目に見えない「遊魂」の動きと協働することで、はじめて私たちは「星空」を見ることが出来るとした。つまり、星は精気と遊魂が凝縮して生まれた天の象徴であり、「天地人相関説」によって夜空の星の運行は地上の出来事を映し出す〈実践知〉として用いられてきた。
これに対して、カントは「現象/物自体」の二元論を提示した。私たちが感覚でとらえる星の輝きは「現象(Phänomen)」にすぎず、星そのものの本当の姿は「物自体(Noumenon)」として理性によってしか推測できないとした。カントは「夜空に輝く星」という現象はあくまで認識の産物であり、直接つかめる実在ではないと考えた。
両者を比較すると、易経では可視の精気と不可視の遊魂が切り離されず一体となって世界を成り立たせるのに対し、カントは可視の現象と不可視の物自体を厳格に峻別している。そのため、易経の枠組みでは、星を見ることは単なる天体観測ではなく、宇宙の気の動き(遊魂)は地上に住む人たちの身体と心に影響を与えるため、天体観測とは、社会や個人の生き方の吉凶を読み解く行為として捉えている。
したがって、易経的世界観を正しく理解するには、「星=占いの記号」という単純化を避けることが重要だ。易経が示すのは、人間の意志や解釈以上に、陰陽の変化としての〈気の運行〉を読み取り、自然と人間が一つの循環系であることを体感的に学ぶプロセスである。これを見失うと、易経を西欧的二元論の枠内でしか理解できず、本来の〈易経=実践知〉としての深みを享受できなくなってしまうだろう。
3. ヘーゲルとの対比──弁証法と精神
項目 | 易経の視点 | ヘーゲルの視点 |
動的原理 | 遊魂 = 陰陽の変化を起こす力 | 絶対精神 = 自己展開する論理的存在 |
発展の仕組み | 精気 → 生成、遊魂 → 変化 | 抽象→否定→統合(止揚)aufheben |
差異 | 精気と遊魂は並列・補完的 | 精神がすべてを含む主軸 |
特徴 | 補完的 | 対立的 |
ヘーゲルの弁証法は、「否定と統合」による段階的かつ螺旋的な発展を説くものであり、あらゆる現象は精神の自己展開論理的にであるものだと論理的に説明したものである。一方、易経の世界観は、「循環と調和」によって成り立つ自然的な動的平衡を重視しており、変化の背後には「精気と遊魂」という二つのエネルギーが共働していると考えた。
両者は、「無形の力が世界に形を与え、動かす」という点では共通している。
ヘーゲルにとっては、精神(Geist)の内的運動こそが変化の原動力であり、世界の発展はすべてこの「精神の自己展開」によって説明される。これに対して易経では、目に見えるものを形成する精気と、目に見えないが変化を起こす遊魂という、補完的な二元の働きが常に前提にあり、これが時と場合に応じて様々なエネルギーを発揮すると考える。
たとえば、草花の成長で言えば、ヘーゲルの視点では芽が出て枝が伸びる過程すらも、テーゼ(存在)→アンチテーゼ(否定)→ジンテーゼ(統合)という一つの精神的運動として把握される。全部をひとつの「精神の自己展開」として説明するため、芽が出る、伸びる、花が咲く──すべては同じ大きな流れの一部として捉える
ヘーゲル流の見方
-
現状の「種」がある(テーゼ)
-
「種」が否定されて芽が出る(アンチテーゼ)
-
芽が成長し花になる(ジンテーゼ)
中国思想(易経)の見方
-
土の栄養(精気):種が芽を出すために必要な目に見える力
-
生命のエネルギー(遊魂):芽を枝葉や花へと育てる見えない力
一方、易経では、「芽が出るには、まず土壌にある精気という目に見えるエネルギーが必要であり、その上で芽を成長させるには、遊魂という見えない生命の働きが不可欠である」とし、それぞれのはたらきを循環的に補い合わせながら発展させることの大切さを説いている。「目に見える力と見えない力の協調」という観点であり、それぞれの力の役割を、その時々に応じて分けて考えることで、自然全体の動きとして説明している。
アウフヘーベンと陰陽は、同一のように捉えられることが多いが、根本的に大いなる違いがある。
混同させると、東洋思想の理解が大きくずれていき、西洋思想的に東洋思想を理解するため、その根本が分からぬまま終わってしまう可能性も高い。
アウフヘーベンと陰陽の違い
“Aufheben”(ヘーゲルの止揚) | “陰陽”(易経の循環原理) | |
世界の成り立ちの捉え方 | 精神の自己展開による体系的構造 | 陰陽の循環とバランスによる調和的秩序 |
変化の原動力 | 精神(Geist)の連動 | 精気と遊魂の共働 |
発展のプロセス | テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼ(止揚) | 陰→陽→陰…の円環的変化 |
要素の構造 | 一元的(精神が物質を包含) | 二元的(可視と不可視の協働) |
自然と人間の関係 | 人間の理性が自然を媒介する | 人間も自然の一部として動く |
象徴的な成長モデル | 精神が内的に世界を発展させる 対立が前進を生む:衝突によってより高次な統合に到達する。より高い考え・やり方に進化。 |
精気が土台を作り、遊魂が動かす 均衡が継続を生む:偏らず交替し合うことで全体のバランスを維持しながら、新しい世界を生み出す(三元論) |
Aufheben(アウフヘーベン)と陰陽は、どちらも「反対の力」を扱う点では共通している。
しかし、その反対の力の扱い方に本質的な違いがある。
アウフヘーベンは、対立する考え(テーゼとアンチテーゼ)をぶつけ合い、その衝突からより高次の考え(ジンテーゼ)を生み出すという考え方で、この【対立 → 統合 → 発展(一直線的な上昇)】構造は、ヘーゲル哲学の中心概念である。
一方で、陰陽思想における「陰」と「陽」は、完全に反対する力ではなく、状況や関係性によって入れ替わる“相対的な反対(対比)”であり、常に”補完関係”にあることが前提だ。そのため、陰と陽は互いに補い合いながらバランスをとる関係にあり、世界のすべての現象は【変化 → 転化 → 循環(円運動)】というリズムの中で動いているとしている。
つまり、アウフヘーベンは「対立を超えて新しいものを生む進化の運動」であり、陰陽は「対立を維持しつつ循環し、補完関係を続けながら調和を保つ自然の運動」だ。
アウフヘーベンでは、「世界を発展させるのは、人間の理性である」と捉えたのに対し、陰陽は、「世界を発展させるのは、人間の理性ではなく、自然全体が陰と陽という二つの原理を相互に補完しながら循環することであり、人間もその大きな生命のリズムの一部に過ぎず、すべての事象は陰陽の調和と転化によって生み出され、維持される」と考えた。 このように、アウフヘーベンが「理性の自己展開=発展」を重視するのに対し、陰陽は「自然との共生=循環と調和」を重視し、人間の役割を自然に順応し寄り添うことに置いている。
考察❶
アメリカトランプ政権の考え方と、日本政府の考え方を、アウフヘーベンと陰陽理論を活用しながら自分の言葉で説明しよう。
ヒント
- 弁証法:あえて衝突させて斬新な統合を生む。
- 陰陽:あくまで補完し合う関係。衝突ではなく、相互依存と転換。
考察❷教育改革
伝統教育と革新的教育の融合について、カント式と易経式の違いについてプレゼンしてみよう。
4. ニーチェとの対比──力への意志
項目 | 易経の視点 | ニーチェの視点 |
動的原理 | 遊魂 = 無形のエネルギー | 権力への意志 = 生命の原動力 |
世界を変える力 | 気の運行(陰陽の変化) | 意志(主観的衝動) |
違い | 精気と遊魂が共働 | ニーチェは全てを「意志の力」に還元 |
ニーチェは「より強くなりたい」「より上に行きたい」と願う気持ち。これこそが世界を動かす力だと考えた。
この内なる衝動を【変化の原理】とした考え方は、現代の自己啓発思想に大いなる影響を与えている。
易経でも、ニーチェの「力への意志」のように、形は見えないけれど世界を変え動かす力として【遊魂】を捉えているが、人間の「意志」以外に、自然や天体、霊の働きまで広くカバーしている包括的な無形のエネルギーとして捉えているのが大きな違いである。
易経では、万物は〈陰陽の変化〉に従って動いているため、この〈気の運行〉こそが世界を変える力である。
つまり、人間がどう考えてもそれは一部のエネルギーでしかなく、自然の摂理には抗えない。
そのため、私たちはそれに「逆らう」のでなく、「順う」ことで、本来の力を引き出すことができると考えた。
「陰陽に従う気の変化」=「卦象の理」に沿うことが、世界を動かし変える本源的な力であるとした。
逆から言えば、卦象の理に記されているのだから、素直にそれに従った方が、効率的に、失敗することなく、変化できるというのが易経だ。故に、Book of changes 変化の経典と言われている所以でもある。
今更だが、SDGs 持続可能な世界のあり方が提唱されている。しかし、その根本理念が理解出来ているのか甚だ疑問だ。
2500年前の賢人達が世界をどう捉えていたのか、易経を紐解くことで、世界の本来のあり方が見えてくる。
続きを読んでいこう。
與天地相似。故不違。知周乎萬物而道濟天下。故不過。旁行而不流。樂天知命。故不憂。安土敦乎仁。故能愛。
天地に与(くみ)して相似(あいに)す。故に違わず。
万物に周(あまね)く知りて、道を以て天下を済(すく)う。故に過(あやま)たず。
旁(かたわ)らに行いて流れず。天を楽しみ命を知る。故に憂えず。
土を安んじ仁に敦(あつ)くす。故に能(よ)く愛す。
自然のしくみ(天地)と調和して生きているなら、道を外れることがない。
あらゆるものごとの成り立ちをよく理解し、
正しい道で世の中を助けるなら、過度に行動し、やりすぎることがない。
周囲に左右されずに自分の軸を保ち、天の理(自然の摂理)を楽しみ、与えられた運命を受け入れるなら、悩んだり心配することもないだろう。
自分の土地や立場を大切にすれば、思いやりの心を深めることが出来る。
そうすれば、人を本当に愛することができるのだ。
範圍天地之化而不過。曲成萬物而不遺。通乎晝夜之道而知。故神无方而易无體。
天地の化(か)を範囲して過(す)ぎず。
万物を曲(ま)げ成して遺(のこ)さず。
昼夜の道に通じて知る。
故に神は方(ほう)無く、易(えき)は体(たい)無し。
易経には、自然界の変化(天地の営み)が書かれている。
それをよく見て、それに合わせて無理なく行動しよう。
過度に行動しようとすると、どうすれば良いのかわからなくなる。
しかし、その範囲内であれば、無理なく行動できるのではないか。
地球上全てのものの存在を尊重しにし、
均衡を崩さないよう配慮することこそ大切だ。
ひとつとして取り残すことなく成り立たせる。
そのためには、変化の中でのそれぞれの役割、存在意義を見出すことが大切だ。
それこそが、易経の理念である。
昼と夜のように変化するリズムを理解すれば、目に見えない力の本質もわかってくる。
本当に大事なものは、決まった形を持たない「変わり続けるもの」。
自然神のはたらきには決まった方向がなく、
易の教えにも固定されたかたちは存在しない。