六十進法
干支暦は六十進法という理論で構築された、古代中国で作られた暦です。
それでは、その「六十進法」という理論、誰が作ったのでしょうか?
中国暦だから、古代中国?って思いますよね。
いいえ、それが実は違うのです。
六十進法を世界で初めて構築して、それを文字にして残したのは、世界最古の文明、メソポタミア文明です。
他の文明、エジプト文明・インダス文明・黄河文明はほぼ単一民族によって興亡を繰り返したので比較的分かりやすいのですが、メソポタミアでは何種類もの民族が互いに争い、さらに異民族の侵入が繰り返されるなどのこともあり、全体像をつかむのがなかなか難しい文明です。
メソポタミアとは、ギリシャ語で ふたつの河の地域という意味です。
ふたつの河とは、チグリス・ユーフラティス河の事で、現在も世界の紛争地帯として注目されている、シリアとイラクになります。つまり、太古の昔から民族の違う様々な国家がこの地で興亡を重ねてきたのです。
紀元前3200年頃に、シュメール人という系統不明の人種が登場して、世界初の文明を興しました。この文明、世界初なのに考えられない位、高度な都市国家だったのです。1200年あまり続いた後、この地にセム人がやってきて、シュメールの文明を大幅に借用し、アッカド王朝、古代バビロニア、アッシリアへと続きます。
その後、ギリシャで第1回目のオリンピックが行われた頃が、新バビロニア時代、その後、アケメネス朝のペルシャ時代、そしてアレクサンドロス大王によるペルシャ滅亡で、メソポタミア文明は終止符を打ちます。
このセム人は、通常アッシリア・バビロニア人とか単にバビロニア人と呼ばれるのですが、シュメール人の存在が後から判明した為、シュメールの文明も含めてバビロニア文明と呼ぶことが多いようです。
つまり、バビロニア文明とは、シュメール文明を土台とし、それをそのまま大いに借用してつくられた文明ということになるのです。
世界四大文明
他の文明との比較が大切なので、他の文明がどの時代に登場したかというと、エジプトでは紀元前3000年頃に初期王朝が誕生し、支配者は変わりつつも、前回のブログにありましたプレマイトス朝のクレオパトラまで国家として存続しました。
インダス流域にモヘンジョ・ダロという壮大な都市が築かれたのが紀元前2450年前後、エーゲ海のクレタ島に都市文明が誕生したのが、紀元前3000年頃、これらの都市国家には交流があり、お互い影響し合っていたということは、考古学的にも確認されています。
それでは中国の王朝はいつかというと、殷王朝の成立は紀元前1500年になります。
つまり、他の文明よりダントツに新しい文明になります。
それ以前に高度な彩色陶器を作った文明が存在したことは確認されていますが、中国は清王朝滅亡後、戦争、共産党国家の成立により、欧米勢を占めだした事もあり、考古学のメスがまだ深くまで入っておりません。考古学の分野は西欧の学者達の影響が大きく、他の文明も彼らの力により再発見されていることを考えると、実は、まだまだ知られていない事の多い文明なのです。
中国史は、司馬遷の史記をよりどころにして設定しており、それによると、殷の時代の前に夏とよばれる王朝があり、その夏の創立者がその前の王朝を滅ぼしたといわれているので、黄河文明の成立は紀元前2000年頃と考えられています。
メソポタミアのシュメール文明が紀元前3200年、黄河文明は紀元前2000年頃となると、その間に1200年もの永い時間があります。
中国とメソポタミアとの間の影響はわかっていないそうですが、殷王朝前の彩色陶器をみると、大いに影響はあったのではないかと推測されているのです。
シュメール文明
シュメール人とは、人類で始めて文字を用いた民族ですが、実は非常に謎に満ちた民族なのです。
シュメールの国家は典型的な都市国家で、王は神の代理人として神の奴隷と考えられた民衆を支配していました。
神殿・宮殿・官庁などのすべてはレンガ造りであり、法律は粘土板に刻まれた楔形文字によって記されていました。
ちなみに、エジプトでは王は神の代理人ではなく、神そのものと考えられていたので、王を神の代理人として捉えたメソポタミアは、ある意味非常に東洋的な考え方です。
実はこのシュメール人の存在は、1872年、大英博物館の修復士、ジョージ・スミスによる世界史的な大発見まで知られることのない民族でした。
わずは36年の生涯で幕を閉じるスミスは、大英博物館にもちこまれた無数の粘土板の破片をジクソーパズルのように組合せ、そこに書かれていた文字を解読していったのです。この気の遠くなるような作業を経て、彼が見つけたのは後に《ギルガメシュ叙事詩》と呼ばれる、英雄の生涯と、その時代を描いた長大な叙事詩です。
その叙事詩には、《それまで考えられなかった、ありえへん!世紀の大発見》があったのです。
《ノアの方舟》の物語がこのギルガメシュ叙事詩に書かれていたのです!
この発見は、当時多くの人達に戸惑いを与えます。それまで旧約聖書の中の有名な話だったこの物語が、原始的な異教世界の粘土板に書かれていたのですから。
この粘土板の物語は、どう見積もっても旧約聖書より、1000年は古いのです。
そして又、困ったことが続々と発見されました。
旧約聖書のその他の記述や、ギリシャ神話と同じものが続々と発見されたのです。つまり、それまで人々が信じていた世界が、1000年前のシュメールの粘土板に書かれていたのです。
メソポタミア南部に登場したシュメール人は、極めて謎の多い民族です。
この地域では、紀元前8000年頃には原始農耕が始まっていましたが、シュメール人はそこから発生した民族ではなく、いきなり何処からかやってきた人達なのだそうです。そして、その後何処に行ったのか不明なのだそうです。
彼らの楔形文字は、周辺の土着の民族とは明らかに違う言語であり、民族系統は未だに不詳です。
興味深い事に、このシュメール語、実は日本語と同じ膠着語に分類されていることから、日本人シュメール人起源説なんていうのが、大正時代からあります。
都市伝説と思いきや、しっかりと学会があったりして、成程と…と妙に納得させられるものもあるのです。
この突然現れたシュメール人が、大河流域の広大な土地に杭を打ち込み測量を始め、運河をひき、大規模な造成工事を行い、数万人規模のレンガ造りの街を作りました。
また、パンやビール チーズなどを食し、スズと銅を微妙な配分比率で混ぜ合わせて青銅をつくるという合金技術すらも知っていました。
医学では白内障での水晶体の混濁部分を除去すれば直るということやその手術方法も知っており、労働者、失業者を保護する法律などがあり、裁判ではすでに陪審員制度がとられていたのです。
天文学も進んでおり、六十進法は勿論のこと、天文観測や日食・月食の計算まで行っていました。
そして、その高度な国家も、紀元前2000年、シュメール最後の王朝となったウル第3王朝が滅んだ後、こつ然と姿を消すのです。(その後、日本に来て日本を建国した…というのが、シュメール人日本人説!!)
シュメール人宇宙人説
シュメール人は、ある日突然やってきて、その時代からみると考えられないレベルの高度な文明を作り、また忽然と姿を消します。
そのため、シュメール人の宇宙人説の都市伝説も人気です。これもまた、妙に納得してしまうのです。
以前ご紹介した、アンティキティラの時計は、古代バビロニア人の作ったものとされています。古代バビロニア人とは、シュメール人の知識を土台にしたこの地の人々のことです。
紀元前2300年 アッカド人の侵略をうけ覇権はアッカド人に移るのですが、文明的にはシュメール人の方が遥かに発達しており、神話の神々もシュメールの神を借用しています。
旧約聖書も、星座占いに出て来る黄道12宮も、ギリシア神話に登場する神々の話も、何十万という楔形文字が書かれたこの粘土板に記載されており、古代文明のルーツを探るとすべてシュメール文明に行き着くのです。
粘土板に書かれていたため、乾燥した地域で5000年もの時を経て今に残っており、しかもその断片が何十万もあるというのですから、ものすごい情報量なのです。
今のデジタル文書などは、一瞬で消えてしまいますが、さすが…粘土板!そこら辺もシュメール文化の凄さです。
シュメール人が宇宙人だとしたら、私達の干支暦学も宇宙人の教えてくれた運命の法則なのかも知れません。
また、シュメール人が我々の祖先だとしたら…
壮大なるロマンですよね。
シュメール人に興味を持って貰えましたか? 次回からしばらくシュメールとそれに続くメソポタミア文明について解説させてください。
干支暦学のオリジンではないか…という目線で調べていきます。もしかしたら祖先かもしれませんから!