プラトンの二元論を説明する前に、中国の二元論について説明しようと思います。同時期に誕生したこの2つの二元論を比較してみると、運命学を紐解くヒントがみつかるかもしれません。
太古の昔から今に至るまで、ひとの悩みの本質には大きな変わりはありません。
未来への不安を解消するには、《自分とは何だ!》という自己概念・自分理解・自分の役割を明確にすることが何よりも大切です。
数理暦学協会は、AI開発シンギュラリティ・遺伝子工学など、これから大変化を遂げる価値観の大変革が起きるこの時代だからこそ、運命学の歴史を紐解いていくことで《自分について》のヒントを見つけて戴ければよいな…と願っております。
さて、まずは、東洋と西洋という概念について説明させて下さい。今後の世界の流れを読み解くにも大切な考え方なので。
私達は感覚的に、世界を東洋と西洋という二つに分けて考えています。このように、物事を2つに分けて考える方法こそが、《二元論》なのです。
東洋人とは…
東洋とは、どのエリアを指すかというと、ペルシャ、今でいうと中近東から、インド、東アジア(中国・朝鮮半島・日本)、東南アジア、モンゴル、中国西域、シベリア、そしてカザフスタンなど○○スタンと呼ばれている国々です。
東京五輪の候補地争いをしたイスタンブールの決め言葉は、西洋と東洋の境界線でしたよね。参考まで、Google Mapを入れておきますね。
西洋とは、ユーラシア大陸を意味し、トルコのイスタンブールより西側が西洋になります。北米は西洋人が見つけたという事で、(見つかってしまったですが…)西洋に入ります。
ギリシャは、地理的には微妙な感じがありますが、ヘレニズムからローマへと繋がりますので、西洋という認識となり、ユーロの一員です。
南米やアフリカ・オセアニア(オーストラリア・ニュージーランド)はどちらにも含まれていません。その意味では、新しい地ということになります。
しかし、今の私達の感覚では、《西洋》というと欧米、《東洋》というと中国・韓国・日本をイメージします。
そもそも西洋という言葉自体、幕末に、アメリカ・イギリスやオランダ・フランスなど白人種が住む国々の総称として生まれた概念で、新しい言葉です。自分達とは違うという認識で生まれており、この時に東洋人としての自覚も生まれました。このような考え方を二元論といいます。つまり自分達と対比させる存在を置く事で、自分達とは何なのかということを見出す理論です。
幕末までは鎖国していましたし、出島にオランダ人は来ていましたが、少数でしたし、その前は宣教師はやってきましたが、ほんの一次期でスペイン人、ポルトガル人でしたし、後は外国というと、同じような顔をしたアジアの国、唐の国・新羅・高句麗だったので、自分達のアイデンティティを自覚する必要もなかったでしょう。
空海とギリシャ哲学で、登場した遣唐使。
遣隋使・遣唐使は、西暦600年頃~894年のおよそ300年間、計23回に渡り遣わされています。
ちなみに、中国が隋から唐へと王朝が変わったので、派遣団の名称も変わりました。小野妹子は遣隋使、阿部仲麻呂や最澄・空海は遣唐使です。日本は暦法を始めとして様々な文化を、この留学生達を通して中国より学びました。
この時代の唐の国は中国史上最も華やかな時代と言われ、玄帝と楊貴妃の物語は有名です。そのため、日本人は、中国=唐、インド=天竺に対して憧憬の気持ちを持ち続けるのです。
幕末の攘夷運動とは、あの天竺と唐を占領してしまった西洋人を、日本にいれると大変な事になるぞ!という感覚だったのではないでしょうか。
東洋の宗教と西洋の宗教
東洋の宗教は、イスラム哲学、インド哲学、中国哲学、仏教哲学の4つがメインで、それ以外に各国による独自の多神教思想があります。
ちなみに、世界四大文明である、メソポタミア・エジプト・インダス・黄河文明は、全て東洋で誕生しました。
つまり、人類の文明は東洋から始まったのです。
西洋の宗教は、ユダヤ教、キリスト教です。
ユダヤ教は、キリストが生まれる1200前に成立し、旧約聖書を聖典としています。キリストの誕生を西暦1年と設定しているので、紀元前1200年の事になります。
有名なモーゼの十戒は、旧約聖書の出エジプト記に書かれています。
エジプトで奴隷状態にあった非エジプト人の集団が、エジプトから逃げ出した事件ですが、このエジプト脱出を契機に「ヤーヴェ」という神を崇拝する民族が誕生しました。それがユダヤ民族です。
古代エジプト文明は、紀元前3000年頃には誕生していたと言われています。紀元前1200年頃のエジプトは、ピラミッドなんかがバンバン建設されていた絶頂期、出エジプト記の時のファラオはラムセス2世、大いなる文明が栄えた先進国であったようです。その先進国エジプトで労働者として隷属化していた非エジプト人たちの集団が、モーゼというリーダーに従ってエジプトを脱出した事件が、出エジプト記です。
当然のことながら、エジプトの先鋭軍隊に追われる事になるのですが、その際、モーゼが杖を高く上げると海が割れる感動的シーンは、映画でも有名かと思います。
彼らはどこを目指して脱出したのかというと、約束の地カナンです。
何故かというと、この地は神が与えると約束したから…とモーゼが言うからです。
誰に与えたのかというと、アブラハムの子孫、それでは一体、アブラハムとは誰かというと、ノアの洪水後、神が最初に選んだリーダー《予言者》のことです。
エジプトという大都市からモーゼに率いられ、脱出したはいいけれど、砂漠と荒れ地に彷徨う苦労の旅路。
住みやすい所には当然先住民がいましたし、荒野で大いなる苦労を伴う入植になります。
「文明都市エジプトで奴隷やっていた方が良かったんじゃないかなぁ。」と思う人もいたでしょう。
この土地こそが、神から与えられたものであり、しかも自分達はその神から選ばれし者…という強い信仰の気持ちがないと、やっていられなかったのかも知れません。
自分たちは、神から選ばれた。だから、自分達もこの神を選ぶという立場を維持するしかなく、このためにユダヤ民族は、「ヤーヴェを選ぶ」という立場であり続けているのです。
3000年以上経った今でも・・・。
約束の地、カナンは今のどこだと思いますか?
そう、イスラエルです。
六十進法と六十干支暦
旧約聖書で有名な《ノアの方舟》と《失楽園》は、実は古代バビロニア時代(メソポタミア)の神話です。
世界最古の文明であるメソポタミア文明は、現在紛争地となっている、シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、イラク、イランをさします。
メソポタミア文明とエジプト・インダス・黄河など他の文明との違いは、メソポタミア文明は、シュメール・バビロニア・アッカド・ヒッタイト・古代ペルシャなど多くの民族の文化で形成されている多文化の総合文明であったことです。そのため、バビロニア(メソポタミア文明)・シュメール(メソポタミア文明)というような記述になります。
昔から様々な民族の紛争地帯であったのです。
その中のバビロニア人は、太陽太陰暦を生み出し、日食の予言も行い、地球が丸いという概念を持ち、ホロスコープの原型を作り、アンティキティラの機械をつくり、そして六十進法も編み出しています。
彼らの作った暦が古代ギリシャに伝わり、ギリシャからローマへ、またインドにも伝わり、インドから中国の六十進法へと影響を及ぼしていったのでは!と、言われています。
古代中国は、独自の暦法を編み出しますが、バビロニア人が天文学を飛躍的に発展させたのが、紀元前19世紀~16世紀初め頃。
紀元前17世紀頃に誕生されたとする中国殷王朝では、六十干支を用いて暦を記す《干支紀日法》という概念が使われていますが、古代バビロニアの六十進法の影響があるのではないかとも言われています。(※遺跡的確証がないため、推測にすぎず)
ちなみに、殷王朝の存在自体、1903年になり始めて遺跡が確認され、伝説ではなかった…という事が証明されている位なので、バビロニアの影響は推測の域を出ません。
六十干支暦とは、十の天干と十二の地支の六十の組合せを、毎日、日めくりカレンダーのように一つずつ進ませて、サーキットさせる方法です。つまり六十のカードを順繰りにめくり、また戻るという方法です。
そのサーキットですが、何と!殷王朝より現在に至るまで一日も途切れることなく、3000年以上連綿と続けられているのです。
月と年は天体との軌道修正のため変更が施されますが、日に関しては、殷の時代から始まったサーキットがずっと続いているのです。
つまり、今日という日は、殷時代からの延長線にあるのです。
干支暦学で、個人解析を行う際、最初に取扱うのが、この生まれた日の干支データです。干支というたった二文字で構成されているデータには、遺伝子情報のように、実に多くの情報が含まれているのです。
気になる方がいらっしゃいましたら、是非!当協会のIT支援を行っているUNGA-Lab社の作成したレポートで自己解析をしてみてください。
つまり…自分とは何かというと《生まれた日の干支》。
この干支が、殷王朝からの継続の中にいるなんて…ものすごいロマンだと思いませんか?
自分という存在は、何千年間の干支サーキットの一部なのです。そして未来永劫このサーキットは続いていくのです。
数理暦学は、星と歴史をテーマとした、そんな浪漫あふれる学問です。