オリンピックの発祥の地、古代ギリシャは、現在のような統一したギリシャという国家があったのではなく、ポリスという独立都市国家の集合体により形成されていました。アテネやスパルタなど大きなものから、小さいものまで合せると、1000を超えるポリスがあったと推定されているのです。
ポリスは完全独立自治市でしたが、彼らは同じ言葉を持ち、同じ神々を信じていました。
このような状況ですから、当然のことながら、ポリス間の争い事は絶えません。
これを見た英雄ヘラクレスが、お互いの親睦を深める為に開いたのがオリンピック競技だと言われています。(注:エリス王やゼウスが開いたなど、他の説もあります。)
紀元前776年に、第1回オリンピックは開催されました。競技のクライマックスに、神ゼウスに雌牛を捧げるという宗教儀式が行われた為、宗教的儀式としての位置づけもあったようです。参照:JOCのHP
オリンピックの開催時期
オリンピックの開会式は、《夏至の後の2度目又は、3度目の満月の日》と決められていました。現在の暦でいうと8月下旬であり、5日間行われたようです。
満月の日と決められていた理由は、ポリスは共通の暦を持たず、暦の名前も国ごとに異なっていたからです。
地中海性気候のギリシャは、真夏のこの時期は気温が40度を超える時もあります。
働きの悪い従業員に向かって、「ちゃんと働かなかったら、粉ひき場ではなくオリンピアへ送ってやるぞ。」と脅し文句に使われていた位、この時期の暑さは半端ではなかったようです。
では、なぜこのような暑い時期に行われたのでしょうか?
この時期は、麦の刈り入れが終わり、秋のオリーブの収穫までの農閑期であり、同時にこの農閑期は戦争の季節でもあったので、この時期に休戦協定を結び、スポーツと平和の祭典をするということには、大いなる意義があったのです。
4年に一度に決められ理由は、太陰暦と太陽暦、それを融合させた暦など、この時期はまだ統一暦はなく、ポリス毎に独自の暦を使用していたことにあります。
のちに古代バビロニア人から太陽太陰暦がもたらされ、ギリシャの統一暦として使用されるようになりますが、オリンピックが始まったこの頃は、各々独自の暦を用いていたのです。
太陽暦の8年が、太陰暦の8年と3カ月にほぼ等しい事から、《8年》が共通した周期であり、8年ごとに祭典が開かれるようになりました。
後に、8年では間が空きすぎるということで、半分の4年周期となったようです。
オリーブの冠
オリンピックの開催年になると、各ポリスに開催を伝える使節団が向かいます。彼らを、スポンドフォロイ《休戦を運ぶ人》と呼びました。
スポンドフォロイは、オリンピックの優勝者に与えられるのと同様、頭にオリーブの冠をかぶり、使節の象徴である杖を持って各ポリスを巡回したのです。
みんなから尊敬された、とても名誉ある仕事だったのです。
スポンドフォロイがポリスを訪れると、町には喝采とよろこびが満ち溢れ、休戦が宣言されました。
平昌オリンピックが始まると共に、緊迫していた北朝鮮問題が一転友好ムードになりました。
古代ギリシャにおいて、スポンドフォロイのもたらした休戦期間は、3か月間位が限界だったと言われています。
オリンピックが終わり3か月経過すると、あちらこちらで戦闘が復活したそうです。
平昌オリンピック後の国際情勢も、大変気になります。
ちなみに…
ポリスが真に連帯したのは、オリンピックが始まってから296年も経ってからの紀元前480年、ペルシャ戦争においてです。
大国ペルシャ軍の侵略に対し、ポリス連合軍が大勝利をおさめます。
これにより、暦も統一されアテネを中心としたギリシャ国家が誕生するのです。
オリンピック平和の祭典より、共通の強力な敵の存在の方が、どうやらポリスを団結させ、統一させたようです…。
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