禅的ポストモダニズム時代

東洋思想と西洋思想の違い

 

人は何かの要望を抱き、その欲望を満たそうとすると、

自分自らの力でもって達成しようとするか、または、他の力で解決するかのいずれかの方法を考える。

 

自らの力でもって解決することを、求心的行動(自力型)といい、他の力に依存して解決しようとすることを、遠心的行動(他力型)という。

遠心的行動(他力型)には、運をよくするための神頼み、宗教を求める行動にも繋がる行動であり、最も原始的姿は祈祷である。
この祈祷型宗教には、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの一神教が含まれる。

求心的行動(自力型)は、自らの心の中にその解決を求める行動であり、仏教・神道に代表される東洋哲学である。

求心的行動(自力型)である東洋思想と、遠心的行動(他力型)の西洋思想の違いはここにある。

東洋思想のルーツは求心的であるため、自立的思想となり、西洋思想のルーツは遠心的であるため、他力的思想ともいう。

 

 

自立的思想

 

自立的思想は、主体を自己におき、主体(自己)に対して宇宙を客体とし、自己の中に宇宙があるという理論である。この自己と宇宙の一体化理論は、陰陽理論により論理化され、これが暦学の基本原理へと発展した。

一方、他力型思想の場合、主体(自己)と対して他者(客体)があり、二元対立論になっていく。
神と人は常に二元であり独立しており、一体化することはない。

そこで我々は東洋思想の原理である陰陽理論は二元対立理論ではないかと思うが、一元が二元になり、更に三元化されることで万物を生じる理論であり、陰陽理論は二元論ではない。
この理論は、老子の道徳経、孔子の易経などに取り入れられ、更に、宋朝時代に更なる発展的理論に昇華される。

つまり、自己(主体)と他者(客体・宇宙)は、融合することにより多元化されるという思想が、陰陽理論の根本理論であり、西洋思想的な神と人を分けて捉える二元論とは大きく違う。

そういう意味では、西洋思想は二元論だが、東洋思想は一元論・三元論といって良いだろう。つまり、西洋の考え方は偶数的思考だが、東洋は奇数的思考である。割り切れない中に、新しい可能性が宿ると考えている。

 

西洋の他力思想の場合、自己の他に神(全知全能の神)なり他者が存在しており、その全知全能の神が、自己の意思より優先されるという一神教に帰結する。

東洋思想の根本原理である自力思想は、宇宙を一元生命体と捉え、個の中に客体(宇宙)があるため、個(主体)と宇宙(客体)は隔離することはない。

例えばこれを環境問題に置き換えると、環境を改善するには、自己を改善するしかなく、自己(私)を離れて宇宙・自然・環境を究めることは出来ないという考え方になる。

この考え方は、宗朝時代に禅思想となり、宇宙論として発展していく。

 

禅思想

 

禅思想は、自己の内省を、実証具現化するというのが根本にある。

東洋思想は、己とは何か。人とは何かを探求し、生命体としての己の再認識から出発して、生命結合の原理、社会結合の原理に及ぶ思考とし、その実証具現化を目指している。

だが残念なことに、西洋主義思想の中で育った人たちは、西洋の一神教的宗教と東洋哲理を混合し、その定義すら理解できない。
本来、東洋思想は一神教のような宗教ではなく、哲理として捉えた方が分りやすい。

東洋思想が求めるものは、自己を中心とした宇宙観である。

霊魂不滅、自分は何処から来て、この世に何をしに来て、何処に去るのかという霊界との関係性や、現世の人への影響などもテーマとしている。
そのため、スピリチュアル的で宗教的なものだと誤解されるが、東洋哲理サイドからみたら、他力的思考の西洋的宗教観の方が、現世利益の追求、奇跡の要求、祈祷により幸福が得られるという考え方であり、他者に施せば無条件的に自己要求を高めることを是認するという考え方に基づいている、極めてスピリチュアルで宗教的なものである。

この他力型の近代西洋思想により牽引されてきた近代思想により構築されてきた文明社会が今、環境問題・格差問題などを惹き起こし、解決策のない極限に至っている。そのため、未来が描けていないのだ。

ポストモダニズム、これからの未来を、東洋的求心的行動で捉えてみないか。
我々は禅的ポストモダニズム時代と捉え、これからの未来を考察していきたいと思う。

 

禅思想とは何か

仏教とは、インドに生まれた釈迦の説いた、仏となるための教えである。

悟りとは、知性を超えた存在であり、生命との対話との世界観だが、これを知性の世界に引き戻して解説するのが教理であり説法である。
それを更に相手の理解力に相当するレベルで解説したものが、対機説法であり、経文である。

禅の宇宙は一元生命であり、宇宙の全てが自分の命に映し出されるという。
そのためには、釈迦と同じ修行を行い、禅定に徹底することで、釈迦の人格を自らに映し出す。

その過程を通して、釈迦と同じ宇宙の実相を経験し、宇宙を捉える感覚を有する人格に昇華し、釈迦と同じ判断が下せるようになるという。
それを目的に修行をする、それが禅である。

つまり、釈迦と同じ修行をすることで、自ら体得して自らが釈迦化するという自力型体現性の世界である。

 

心眼が冴える(静慮)

 

禅を特徴づけている考えに、静慮という概念がある。静慮とは精神統一をして自我を取り去ることを目的にしたもので、心眼が冴えるにより、世界観・宇宙観が広くなる。
つまり広い世界・宇宙での個の存在を捉えることが出来るのだ。それを、「心眼が冴えてくる」という。

冴えた心眼をもって宇宙を見ると、宇宙の真理を把握することが出来るという。
そのマニュアル的経文が、俱舎論である。

暦学でいうと、極微論である。仏教とはこのように、宇宙を貫く法則がかかれた理論である。

 

因縁と禅

自分の真の姿とは何か、内観によって捉えようとしているのが禅思想だ。
己を知る。己を究めれば宇宙の現象を捉える事が出来る。

それには、雑念を去るための精神統一をすることが大切だ。
それを目的としたのが瞑想 メディテーションだ。

自我を去る事により、宇宙の見られる世界が広く深くなる。
顕微鏡のように小さいものが見え、望遠鏡のように遠くが見えるようになるという。

心眼は、本人の修行次第であり、その視野が広くもなれば狭くもなる。

悟りへの修行とは、自我をなくすと同時に、心眼が冴えていくことでもある。

冴えた心眼で宇宙を見ると。天文学的視点で俯瞰することが出来る。

仏教でいう一刹那とは、今日の時間にすれば、67500分の1であり、今日でいう素粒子理論だ。そのような心の彼方を説き極めたものが唯識論であり、大毘婆沙論である。

つまり、仏教は偉大な哲学書でもあるし、宇宙物理学者でもある。素粒子や重力波など、自然科学が発達すればするほど、仏教の正しさは証明されてくる。

 

禅と悟り・因縁

 

禅とは、己の真の姿が何かを、内観によって捉えようとしている哲理である。

迷える苦悩の己が、悟れる己を自覚し、真実の己を生きようとしているのが禅だ。

そのためには、現実現象である、今を生きる自己の生命自体を把握することから始める。
己の生命は、森羅万象と繋がっており、「悟り」という心的ステージに自らを導くことで、それを自覚する。

つまり、禅とは、宇宙を究めることを目的としている。

己を知るために素材とするのが、「因縁の把握」である。

因縁は眼に見える現象であるため、活動として捉えることが出来る。

逆にいうと、因縁を捉えない限り、宇宙、森羅万象と繋がる生命そのものを捉えることは難しい。

 

宇宙生命体を呼べば、やまびことして因縁が現象として活現する。

禅の修行により、波立つ心を静めると、因縁を明確化させることが出来る。

だがそれが、禅の修行の目的ではない。この明確になった因縁を切り捨てることが禅の修行である。

 

ただ物も心も、生命を素材として生じたものであり、無実体であるが「因縁」という現象自体を切り捨てることは出来ない。

切り捨てるものは、「因縁を切り捨てても壊れない心」である。

 

例えば親子の因縁というものがある。
親子の因縁自体は現象であるため、切り捨てることは出来ない。

「親子の因縁を切り捨てても壊れない心を切り捨てる」、これが禅の修行である。

 

心の素材は生命だ。

そのため、心を切り捨てることにより、生命の実体を捉えることが出来る。

ここでいう生命とは、己の生命ではなく、宇宙生命を示す。

心とは、「己の生命が波立つ現象」だ。
そのため、その波を鎮めれば宇宙生命を捉えることが出来る。
これこそが禅の狙いであり、「座禅を組む」意義である。

己の生命を捉えるための現象、それこそが「因縁」なのだ。

因縁によって起こる様々な現象が、眼に見えるものとして働くからこそ、生命を捉えることが出来る。
逆にいうと、因縁が現象化しない限り生命の働きを捉えることは難しい。

因縁があれば、生命が躍動する。

 

このように、禅の修行とは、因縁によって躍動する生命そのものを捉える事ではなく、因縁のままで因縁を切り捨てる作業をいう。

そのための修行とは、己が己に成りきり、因縁を切り捨てても壊れない心を切り捨てることだ。

心を切り捨てる事によって、生命の実体を捉えることが出来る。これが座禅の意義である。

 

如来の世界

 

このように仏教は、人が善をなし、智慧を磨き、禅定によって雑念を去り、明鏡止水の境遇に至らしめ、己と森羅万象、宇宙空間の境のない世界に安住することを目的としている。

このことにより、善悪・生死を解脱し、一切の人間苦の根本を解決することができるという。

この心境に至れば超自然の力が得られ、智慧や慈悲が円熟して完成された人物、如来になれるのだ。

 

法華経では「円智を名付けて仏と成す」という。

仏とは、天から降ってきたものでも、神話的存在でもない。

人間の本来もっている心性が十全に光を放っていることを自覚した人間であり、宇宙の絶対性と帰一、全一体の境地まで至った人物である。

道元禅師曰く、「身心脱落」状態であり、自分が宇宙万物に生かされていると感じる境地である。

それにより始めて、自らがこの世に生を受けた天命の自覚、この世に何をしに来たかという、己の任務と役割が明確になる。

 

成仏とは何か

 

成仏した存在を神というなら、成仏の資格・神になる資格とは、菩薩眼を持つことで、宇宙を動かす力を手にすることだ。

一元生命とは、宇宙は一つの生命で出来ているという理論である。

それが因縁の相違、組み立ての相違によって、山となり川となり、人間となり、昆虫になる。

その違いはあるが、その奥は全て空間的に繋がっている。

つまり、宇宙全てが繋がっているから、宇宙の全てが己の生命に映し出されるということになる。

物理元素の素粒子の結合においても、全て映し出されているということと同じだ。

この、「宇宙の出来ごとが己の心に映し出される力」を神通力という。

 

眼には五眼(ごげん)があり、肉体の奥にあるものが「天眼」だ。

この天眼を鍛えれば、宇宙も霊界も自由自在に見える。

天眼の更に奥にあるものが、「慧眼」である。

「慧眼」を鍛えると、人の任務や役割、人間関係の因縁などが見えるという。

つまり、この人は如何なる任務を果たすために、現世はどのような目標に向かうための準備期間なのかが分るという。

この慧眼の更なる奥にあるのが、「菩薩眼」だ。

この眼は菩薩様方の世界が見える眼であり、下界の諸々の因縁、天下の形勢や国の命運などが見えるという。

 

生命を躍動させるために因縁がある。

 

因縁と一言でいっても、血統上の因縁、先祖の因縁、地域の因縁など多岐にわたって混在している。
そのため、現世は、過去の因縁が絡み合った世界であるため、生きるのが苦しいのだ。

だが、生命は躍動しなければ意味がない。存在しているだけでは生命とは言わない。

因縁とは生命を躍動させることが役割である。逆にいうと、因縁の中にこそ生命は動き出す。

つまり因縁がなければ生命が動かず、生命の実体は喪失する。

静慮によって天命を自覚し、それに沿った行動をするとき、宇宙が自己に映し出されエネルギーが躍動する。

 

「我は宇宙なり」と実感する、そのことこそ、悟りである。

悟ることで、己に中に宇宙が溶け込んでくる。

宇宙が私に何を期待しているのか。
それを感じることが出来るのだ。
だがそこに至るまでの、修行のスタート時の目標は、自我を消すことであり、このことに専念しない限り、宇宙は出現しないのだ。