暦とローマ帝国(ユリウス暦とグレゴリオ暦)(山脇史端)

私達が現在使っている暦は、グレゴリオ暦です。

江戸時代まで使われていた太陽太陰暦(干支暦・旧暦)と対比させ、新暦と呼んでいますが、正しくはグレゴリオ暦といいます。
グレゴリオ暦とは、1582年10月15日に、ローマ教皇グレゴリウス13世が、それまで1600年以上使われていたユリウス暦を改定した暦です。

ユリウス暦

それではユリウス暦とは何かというと、紀元前45年にその名の主、ユリウス・カエサルによって制定された暦になります。

ユリウス・カエサルというと誰?と思うかもしれませんが、日本では、シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』で有名なので、ジュリアス・シーザーといったらお分かりになるでしょう。ローマ帝国の最高権力者でありクレオパトラの愛人だった、あのシーザーです。

ローマ帝国は、以前のブログでもご説明した通り、紀元前753年に狼に育てられたロムルスによる建国から、476年に滅びるまでの1000年あまり続きました。

つまり、今から1500年以上前にローマ帝国は滅亡するのですが、ローマ帝国滅亡後、ヨーロッパではギリシャやローマのことなどすっかり忘れ去られてしまうのです。いわゆる、暗黒の中世時代と呼ばれる1000年間が続きます。この時期のヨーロッパ人の精神を支配したのは、キリスト教です。

そして、13世紀に入ると古代ギリシャやローマに興味を持つ人達が登場します。その時期を、ルネッサンスといいます。

ルネッサンスは古代復興と訳されています。その古代とはいつのことかというと、古代ギリシャとローマ時代のことなのです。

ローマ帝国

ローマ帝国の特徴は、民族の違い、文化の違い、宗教の違いを認めた上で、それらをすべて包み込んだ帝国でした。古代エジプトでは被征服者は殺戮されるか、奴隷化されるかのどちらかでしたが、ローマ支配の特徴は、征服した民族の文化や宗教の多様性を出来る限り尊重し、市民権を与えてとりこんでいくという政策でした。

先日、イギリスでヘンリー王子のロイヤル上ディンが行われましたね。
美しいメーガン妃はご存知の通り、お母様がアフリカ系アメリカ人です。「英国王室の伝統にふさわしくない」、と人種差別的な意見が数多く出ていましたが、それを聞くと、果たして、人間の精神とは進化しているものかと疑問を感じます。非難をものともせずに愛を貫いたヘンリー王子の姿勢は、中世的な偏見と戦い苦しみながら、人生を駆け抜けた故ダイアナ妃の姿を彷彿とさせ、多くの国民に感動を与えたのだと思うのです。

植民地という考え方自体、非常に中世封建的です。ローマ帝国式の考え方は、征服した土地の市民を自国の市民とし、良い人材がいたら議員にまでしてしまうという考え方であり、そのようにして領土を拡大したのがローマ帝国の帝国主義でした。

実は、この同化政策を最初に打ちたてたのは、アレクサンドロス大王です。以前のブログでもご紹介した通り、アレクサンドロス大王は征服したペルシャの姫君たちと部下の結婚を強要し、自身もペルシャの王女と結婚しています。だが残念なことながら、この同化による領国拡大という壮大な構想を実現することなく、30代半ばという若さで死んでしまうのですが、その死から約300年後、彼の夢は、ユリウス・カエサル(ジュリアスシーザー)により、実現されるのです。

ユリウス・カエサルの政治は、「寛容」政策と呼ばれています。彼は、外国人はもとより、つい少し前まで敵として戦っていた民族にも、市民権を与え、優秀な人には議員権まで与えています。そもそも、ローマ帝国は、成立初期段階において権力者の血縁継承を禁止し、王・元老院・市民集会の三権分立を確立させていました。王の出身が被征服者というのも珍しくなかったのです。つまり、国家を繁栄させるために、民族の多様性を寛容に受け入れ、優秀な人材を登用するという気風が既にありました。それは古代ギリシャの影響が強いと言われています。

勿論、古代ギリシャ時代から奴隷制度の上に市民生活は成り立っていました。しかし、奴隷も一定の期間を経ると市民権を得たり、品格ある奴隷はその人間性を尊重され、解放されたりという記録が多く残っていることから、かなり流動性があったようです。

 

古代ローマの暦

ローマ建国の時に用いらた暦は、ロムルス暦・ヌマ暦です。1年が355日からなる太陰暦だったので、太陽の動きに合わせると、1年で11日の差が生じていました。
そのため、2年ごとに交互に22日と23日の閏月を入れて調整していたのです。22日と23日の閏月が2年毎の交互になるということは、4年で45日間、つまり年平均では11・25日になります。

そうなると、ヌマ暦の年平均日数は、355+11・25日=366.25日となり、地球が太陽のまわりを一周する太陽年の365.25日と較べると、1年間に24時間ずれるだけでしたので、気候のズレはほぼ解消していました。

このように閏月を設けて調整するように定めた暦でしたが、閏月が入ると、政治の任期も延長するため、すぐに追い落としたい政敵がいたりすると、閏月を省略してしまったりと、政治的理由で適当にされた為、カエサルの時代には、3か月以上暦日がずれてしまっていたのです。

さすがに季節のズレが3か月もあると都合が悪いので、カエサルは暦の改訂を行います。ここで行われた改暦がユリウス暦です。

シーザーというと、クレオパトラの名前が連想される方も多いかと思います。

クレオパトラは、プトレマイオス朝のエジプトの最後の女王です。プトレマイオス朝とは、アレクサンドロス大王の死後、部下であったプトレマイオスが創始した王朝です。プトレマイオスはアレクサンドロスと同郷のマケドニアの貴族の息子で、幼少期よりアレクサンドロスの側近騎兵隊将校でしたから、アレクサンドロス大王の後継者といっても良いかもしれません。

ユリウス暦のヒントはこのプトレマイオス朝のエジプトにありました。プトレマイオス朝の首都はアレクサンドリアです。アレクサンドリアは立派な図書館がある学術都市であり、このアレクサンドリアを中心にヘレニズム文化は成熟したのです。

エジプトはナイルの氾濫の時期の観測と、ピラミッド建設の必要性から天文学が大変発展していました《暦法先進国》だったのです。

エジプトへ遠征したシーザーは、クレオパトラに魅かれ、彼女を王位に復帰させるべくエジプトに長く滞在することになります。
おそらく、この時にエジプトの優れた文明に触れたので、ローマに帰国後、エジプトから天文学者のソシゲネスを招いて制定したのが、ユリウス暦です。

ユリウス暦では、それまでは3月が年初であったものを、1月を年初に改め、1年を365.25日、奇数月を31日、偶数月を30日に、2月のみ29日と制定しました。

ついでに、自分が誕生した7月に、自分の名前をつけました。それがJuliusni、つまり、Julyです。ちなみに、カエサル暗殺後、彼の跡を継いだオクタヴィアヌスは、その後ローマ帝国初の皇帝となり、アウグストゥスと呼ばれるようになってから、このユリウス暦に、7月がシーザーのJulyであるなら、8月は自分の月だということで、8月をアウグストゥスの月、Augustと改名しました。

奇数月が31日なの、偶数月が30日でした。そのため、8月は偶数月なので30日になります。皇帝である自分の月が「小の月」なのを嫌い、8月をむりくり31日にして、その分2月を1日減らして28日と制定したのです。その結果、なぜか7月と8月は大の月が続いて、2月はいきなり28日で閏年だけが29日になるという、奇妙な数字配列になったのです。以来、この改訂ユリウス歴は1600年以上も使われていきます。

 

グレゴリオ暦

このユリウス暦は、1年の長さを365.25日と定めました。しかし、実際の一太陽年は、365.24219878日のため、1年間に約11分14秒ずつ実際の太陽の運行からずれていきます。この誤差は小さいようにみえるのですが、128年経つと、24時間、1日になり、ユリウス暦の方が1日早くなるのです。

そもそもローマの暦は、ロムルス暦から1年の始まりは3月でした。昼夜の長さが同じになる3月21日の春分から1年が始まるというのは、極めて自然の流れです。
更に4世紀に入ると、キリスト教を国教としてから、キリスト教最大の祭り《復活祭》が、ローマ人にとっては一年の大切な節目となります。

この復活祭が同じ時期なので、《復活祭は昼と夜の時間が等分になる「春分」をすぎたあとにくる最初の満月の後の最初の日曜日とする》と、議会で制定します。

さて、それから約1600年、時代は16世紀、ローマ法王グレゴリウス13世の時代に飛びます。

ユリウス暦の1年間のズレ11秒14秒が、1600年も経つと10日あまりになっていました。

そうすると、実際に昼夜の長さが同じになる春分が、ユリウス暦上では10日早い時期に来てしまいます。つまり、ユリウス暦の上でいう3月21日は、実際の太陽の運行上は3月11日の事になります。昼夜の長さが同じではない日が、3月21日になるのです。
そうなると、復活祭の定義に大いなる矛盾が生じ、教会の権威にかかわる大問題となったのです。

困ったグレゴリウス13世は、最初は単純に1582年10月4日~15日という10日間を、暦から抜いてしまいました。その結果、春分は再び3月21日に巡ってくるようになったのですが、根本的な解決にはなっていません。

そこでグレゴリウス3世は、西暦が4で割り切れる年を閏年とする。但し、西暦年が100で割り切れても、400で割り切れない時は平年とする。という数学的ルールを設定しました。つまり、1600年や2000年は閏年になりますが、1700年や1800年は400で割り切れませんので、閏年ではなくなります。

この計算式でいけば、微妙な誤差はありますが、西暦4902年になって始めて1日の誤差が生じる範囲ですみます。

この優れた計算式によるグレゴリオ暦は、1582年に制定されます。

ローマ法王により改正された暦だったので、イタリア・フランス・スペイン・ポルトガル・オランダなどのカトリック国はすぐに採用しましたが、プロテスタントの国では宗教的な反発のため拒否され、イギリスでは18世紀後半までユリウス暦が使われていたのです。

そのため、日本でも、明治政府が国の制度を参考にした国がイギリスだったこともあり、明治6年1月1日にとりいれた西洋暦はユリウス暦でした。それから27年後の1900年にグレゴリオ暦に改暦されたのです。

さて、一気にグレゴリオ暦まで持っていきました。

如何でしたか?本当はローマについてたっぷりやりたいのですが、東洋に行かねばならないので、ここで終わりにします。

次からは、軸を西に向け、メソポタミアにもう一度戻り、ペルシャ・インド、そして当協会の暦学の誕生した中国暦へと話しを進めていきたいと思います。時々その比較として、ギリシャ・ローマ時代の思想について引き合いに出して参りますので、その都度、見直して戴けたらと思います。

どうぞ宜しくお願い致します。