二十四節気 季節で感じる運命学《小満》(染谷康宏)

夏の季節が《立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑》の六つで構成されていることは、前回の「立夏」のところで説明したところですが、今回は夏季の2つ目「小満」です。

二十四節気は太陽の角度で計算されるため毎年違う事も触れましたが、太陽黄経(太陽の見掛け上の通り道)が60度となる5月20日ないし21日が小満で、今年は5月21日がその日に当たっています。

暦便覧(暦の解説書)には、「万物盈満(ばんぶつえいまん)すれば草木枝葉繁る」と出ています。つまり「万物が次第に満ち溢れて、草木の枝葉が繁るころ」という意味です。気候が暖かくなり、草木が成長してどんどん繁っていく様子を表している訳です。

農作物、特にこの時期に穂をつける麦などが順調に育ち、一安心(少し満足)するので「小満」と言われるという説もある通り、麦の穂が黄金色に染まる頃でもあります。

 

七十二候

二十四節気は、中国の戦国時代(紀元前403年~221年)の頃に歴と季節のずれを正すものとして用いられ、半月ごとの季節の変化を示しています。そして二十四節気をさらに5日ずつ3つに分けた七十二候(しちじゅうにこう)も考案されています。七十二候は、気象の動きや動植物の変化を知らせる短文形式になっているのが特徴です。

二十四節気は中国から入ったものがそのまま使われていますが、七十二候は日本の気候風土に合うように改められています。現在使われているのは明治7年(1874年)に略本歴(当時神宮司庁が一般向けに発行した小型の暦)として改定されたものです。

岡田雫先生の「陰陽五行論(二十四節気)と薬膳料理②小満」の中でも、小満の陰陽五行についてご説明がありましたし、七十二候についてもご説明がなされていますので、ご覧になった方も多いかもしれません。

これに加えまして私が書いております「二十四節気の小満」中でも、七十二候について触れておりますので、内容が一部重複することになってしまいましたがお許しください。

 

初候・次候・末候

七十二候では、一つの節季を5日間ごとに初候・次候・末候の3つに分けていますが、小満の初侯は略本歴では「蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)」と言いい、蚕が桑の葉を盛んに食べる時期を表現しています。

同じ初候も中国の宣明歴では、「苦菜秀(くさいひいず)」(苦菜がよく茂る)と言っています。東洋医学では味を季節と関連づける考え方があって、苦い味のものは夏と関連づけられています。

苦味は、陰の気を補って熱を取る作用があると考えられていて、体を冷やす作用のものが多いと考えられています。つまり陽の気が増えていく事に対して、苦菜の陰で自分を冷やして守ろうとする働きを表している訳で、苦菜が茂って伸びてくるあり様は、夏に向かって気温が上場してくることを示している訳です。

こうした食物(薬膳)と陰陽の関係については、岡田雫先生の方が専門なので、機会をとらえてご解説くださるものと思います。

小満の次候は「紅花栄(べにばなさかう)」と言い、紅花の花が咲き誇っている状況を表現しています。

宣明歴では「靡草死(びそうかる)」と言い、ナズナなどの田に生える草が枯れることを表現しています。「靡草」はとても読めそうもない漢字ですが、ナズナやセリなどといった春の田や畔道などに生える草の事で、こうした春の草が夏の強い日差しで枯れていく様子を表しているのです。夏の草はどんどん伸びていきますが、春の草は勢いを無くし枯れていく季節の移ろいを表しています。

最後に小満の末候「麦秋至(むぎのときいたる)」ですが、これは文字通り麦が熟し麦秋となる様子を言います。麦が収穫される5~6月の時期を差し、俳句では夏の季語になっています。宣明歴では、小暑至(しょうしょにいたる)」と言って、ようやく暑さが加わり始める時期を表現しています。小満で少しずつ増えて行くのが陽の気であり、暑気。冬の陰気、すなわち寒気は遠くに消え去り、陽の気が満ちてきた季節になったことを表している訳です。

まさに陰陽五行の中で表す季節の移ろいとも共通するものです。

養蚕の歴史

さて今回の小満の回では、初候で述べた「蚕起食桑」の蚕すなわち養蚕について触れてみたいと思います。日本の養蚕については、2014年(平成26年)に「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産となったことで注目を集め、記憶にある人も多いのではないかと思います。私も世界遺産になる前も含めて何度か富岡製糸場を訪れています。養蚕や製糸に関する歴史や製糸場の施設を見学しましたが当時の技術水準の高さを目の当たりにして、とても感動いたしました。

富岡製糸場やその頃の養蚕技術などについてはここで紙面を割くことは致しませんが、日本の養蚕の歴史などについては触れて行こうと思います。

養蚕の歴史を調べてみますと、その起源は中国にあると言われ、一節には5000~6000年前には始まっていたと言われています。絹は、殷や周時代の遺跡からも見つかっていますが、絹を作るために養蚕技術の持ち出しは長い間禁止されていたそうです。はじめは宮廷内だけで養蚕は行われていたようですが、紀元前1000年くらいになると、一般農家でも養蚕が行われるようになったそうです。やがて宮廷だけで取り扱っていた絹も西域との貿易によってシルクロードへと流れていきます。なんとなく数理暦学の生い立ちとも似たような時代の流れに、思わず笑ってしまいます。

日本には、稲作といっしょに伝来したという説もありますが、日本における養蚕の最古の記録は、「日本書紀」にあって雄略天皇が皇后に飼育を指示したと言う記述があります。こうした歴史的な背景もあってか、現在でも美智子皇后様がご養蚕を行っておられます。天皇陛下のご退位に伴って、美智子皇后様から雅子様にご養蚕が引き継がれることになると報道されており、これからも養蚕の歴史は続くのだなと感銘を受けました。

江戸時代になって養蚕技術は発展し、明治時代には最盛期を迎えたことは、そう古い歴史ではありません。映画「ああ野麦峠」でもその背景として出てくるのが、生糸の生産であり養蚕でもあるのです。私の祖父母あるいは父母の時代には、蚕を「オコサマ」と呼んでいましたし、私自身中学校の通学路の途中には桑畑がまだ残っていました。桑畑の近くの農家には、屋根の棟の上に換気用の小さな屋根(高窓というらしい)が付いた特徴的な建物が何棟も残っていたことを記憶しています。そうした養蚕農家は、私の住む町でも現在は絶滅してしまいましたが、群馬県あたりを旅行するといまだに高窓のついた農家を見ることができます。

そして伝統ある日本の養蚕技術は、ODAの一つとしてJAICAのプロジェクトとして発展途上の国々に伝えられています。十数年前の話ですが、私は個人的な旅行でネパール人の友を訪ねてカトマンズへ行ったことがあってその時ちょっとした事件が起きました。事件の詳細はここでは触れませんが、その時日本の養蚕技術がODAとして途上国に伝えられていた事実を知ったのです。ネパール人の友は、養蚕技術を伝えるために訪れていたJAICA職員の通訳として働いていたのです。そのつながりもあって、JAICA職員に助けていただいた訳です。現在、日本国内では養蚕を家業として行っていることを見る機会はほとんどありませんが、養蚕に関する高い技術は国内に残っていて途上国に伝えていたことを、その時大変うれしく思ったのです。「芸は身を助く」といいますが、技術は国を助けるものだと感じました。これは数理暦学にも通じることで、数理暦学の技術は個人はもちろん国をも助けるのではないでしょうか。


家畜化された昆虫

最後に、余談にはなりますがカイコについてお話をします。

カイコは、家蚕(かさん)と言って、人に買われている昆虫なのです。もはや野生では生息できない生き物だと言われています。養蚕が始まって数千年の歴史がありますが、この時間経過の中で人の管理なしには生きてゆけない生き物になってしまったのです。

たぶん人が長年にわたって改良を重ね、絹を採るために作られてきた生き物なのなのでしょうね。だから、餌が無くなっても、外へ逃げることもありませんし、樹木に自力で付着し続けることもできないのです。故に「自然回帰能力を失った唯一の家畜化動物」と言われるのです。私自身、この事実を知った時には本当に驚きました。

ちなみにカイコを数ええる時には、1頭、2頭と数えるのです。知っていましたか。

 

写真の説明(参考)

カイコ

このカイコは、東御市(とうみし)の海野宿(うんのじゅく)を訪れた時に写したものです。海野宿は、宿場町として栄えた北国街道の町でしたが、明治時代には宿場町としての機能が失われ衰退しました。しかしその後の養蚕業で得られた財力で、改築が行われ宿場町の形を残すことが出来ました。その残された宿場の町並みの中に養蚕の展示が行われています。

 

紅花

紅花は、江戸時代中期以降は現在の山形県最上地方や埼玉県桶川市・上尾市周辺で盛んに栽培されたようです。明治以降は、中国の紅花が輸入されたり化学染料が普及して、国内の紅花生産は急速に衰退していきました。最近では、観光用などにわずかに栽培されている程度になっています。この紅花の写真は桶川市で栽培されているものを写したものです。

 

小麦

埼玉県では、二毛作で小麦の生産を行っている農家がかなりあります。ちょうど小満のこの時期は、まさに小麦の収穫時期にあたっており我が家の近くにもたくさんの小麦がとてもきれいに実っています。17日に近くの田んぼで撮影しました。